聖書について考える - 自由の神エホバ

 神の言葉が人を育みますので、聖書に関心を持ってもらいたいと思っています。統治体への批判も合わせて行っていきますけれど、しっかりと神の言葉を基盤として立つ事ができないと、信仰が弱まるだけになってしまいます。エホバの組織への信仰をどんどん減らして、イエスを通したエホバへの信仰をどんどん強めていってほしいと思います。

 少しづつ僕が得た聖書の理解を記していきたいです。これは、決して僕の考えが正しいというようなものではないです。いわば、選択ができる、おかずのようなものだと思ってください。聖書を最初から最後まで、頭の中でつながって、すっきりとした理解を得るための、単なるひとつの理解です。

 統治体が自分の権威において、聖書のある箇所の意味を確定させようとしますので、僕は、それとは反対の方法を語ります。それは、いくつかの解釈を比較検討してもらうことで、自分の中ですっきりできる聖書解釈を組み立てるという方法です。

 これでは人によって異なります。けれども、それでよいのです。その中で、共通に似通っている部分ができてきます。しっかりとすべての人の中心になって残っているのが、イエス・キリストを通した神への信仰であればよいと思います。

自由について

 では、自由について語ります。僕は、聖書の中心的な指針は、制約ではなくって、自由であると考えています。制約の残りの部分が自由なのではなくって、自由の残りの部分が制約です。

 エホバの証人の兄弟・姉妹が何に苦しめられているかといえば、会衆や長老が課す制約によって苦しんでいます。ですから、多くの兄弟・姉妹は、聖書に対する本質は、制約であると考えがちになります。

 「自由な世の中と対比して、制約のある神のおきて」という風に考えるのです。けれども、この考え方は間違っていると思います。聖書が示しているのは、自由だからです。最初にあったのは、大きな自由ですし、最後に与えられるのも大きな自由です。

 神は最初にこういわれました。「あなたはすべての木から食べてよい。けれども、善悪の木からだけは食べてはならない。」

 エホバ神は不自由の神だったのでしょうか。多くの不自由の中に、小さな自由を与えたのでしょうか。いいえ、そうではありません。ありあまる豊かな自由を与えた後に、小さな制約について語りました。

 ありあまる自由を楽しんでほしかったのです。けれども、自由を与えた神に敬意を示して、小さな制約を守ってほしかったのです。

 多くの人は神は制約であると考えます。それは、統治体とものみの塔協会のせいでもあります。けれどもそうではなくて、本質的な部分は、自由です。ありあまる自由があって、少しの制約があります。

 現在において、少しの制約とはなんでしょうか。それは「あなたは隣人を愛さねばならない」です。この一点においてすべてのおきては、集約されます。ですから、イエスのくびきは軽いのです。

 人は、あまりにも多くの背負いすぎた荷物のせいで、隣人を愛することが難しくなっているように感じます。会社にいれば、お金がからむときは、その人への愛よりも、お金への愛が優先されます。村社会にいれば、村のおきてがからむときは、隣人への愛は軽視されます。

 また会衆内においても、統治体の規則がからむときは、その規則によって、ひとりひとりの個人への愛がないがしろにされています。愛のない人の口癖は「これは愛のある行為です」です。

 人は外面において、多くの重荷を背負いすぎているので、自然に隣人に愛を示すことが難しくなっています。
プライド、立場、体裁、さまざまな規則によって、愛をしめすべき場面で、愛を示すことができず、自分を守るために、自分の悪い行いを善いといってごまかします。

 イエスは「自分の持ち物に別れをつげない限りはわたしの弟子になることはできません」と言われました。イエスは、人が多くの重荷を背負っていることを、よく知っていました。この聖句は、統治体が適用するように、金や資産や労働力を、宣教奉仕や寄付のために用いましょうという意味ではないのです。

 この聖句の本質は、人はあまりにも多くのものを背負いすぎているということです。そのせいで、隣人への愛を示すことができなくなっています。

 「自由の民らしくありなさい」パウロはそういいました。そうです、神の霊のあるところには自由があります。エホバは、自由の神です。エホバ神が、僕たちに課している小さな制約は「あなたは隣人を愛さねばならない」です。

 これを素直に実践することができれば、どんなによいことでしょうか。