婚前交渉について

 婚前交渉について、僕の意見を書いておきます。結論から言うとしてほしくないです。

 そもそも結婚とは、なんなのでしょうか。僕は、結婚という言葉の意味が、現代社会において、本来的な意味と乖離しているように思えます。

 国民国家における結婚とは、国家が管理しているので、国家に婚姻届を提出することが結婚です。

国民国家においては、国家に婚姻届を提出することが結婚

 また結婚というのは一般に社会性をおびます。結婚というのは、周囲の人や社会が認めるということの意味が、現代社会においては、付与されているように見えます。結婚式を行うことが、結婚だと考えている人も少なくありません。

地域社会における結婚には、社会承認が伴う

 けれども、聖書的な意味においては、結婚というのは、上記のふたつの意味を持っていません。上記のふたつの観点は、国民国家や地域社会が個人に課しているものです。

 聖書においては、結婚とは「当事者のみにおいての関係」です。、また「神が結ぶ」ということにおいて神の前における約束です。

聖書においては、結婚は当事者同士の関係で、神の前における約束

 では神の目から見た結婚とはなんでしょうか。神の目から見た結婚とは「ふたりが一体」になることです。つまりセックスをして、「ふたりは一体」という関係に入るということが、結婚なのです。

これを初めから男性と女性に造り,『このゆえに,人は父と母を離れて自分の妻に堅く付き,二人は一体となる』と言われたのです。したがって,彼らはもはや二つではなく,一体です。
(新世界訳聖書 マタイによる書19章4-6節)

 人類は最初に、アダムとエバのふたりしかいませんでした。このときにおいて結婚とは、アダムとエバというふたつの肉が、ひとつの肉になること、つまり一体となることが、結婚を意味していました。

 婚姻届の提出や社会からの承認、結婚式を挙げることなどは、結婚の条件ではなくって、神の前において二人が一体となることが結婚です。婚姻届の提出や結婚式というのは、国家や社会などの、世の権威が、社会の安定のために、夫婦に課しているものであって、本来的な結婚の意味ではないです。

そこで,わたしはわたしのすそをあなたの上に広げて,あなたの裸を覆い,あなたに誓いのことばを述べ,あなたとの契約に入った』と,主権者なる主エホバはお告げになる,
(新世界訳聖書 エゼキエル書16章8節)

 この言葉は、エホバ神がイスラエルを自分の恋人としてみたてて、述べた言葉ですが「裸を覆う」つまり「セックスして、誓いの言葉を述べて、契約に入った」と書いてありますね。

 セックスのほうが結婚の誓いより前にきていますね。でもセックスするということは、誓いの言葉を述べて、結婚の契約に入る責任が伴うということです。男性はこのことの意味を深く考えて欲しいと思います。他の人からは隠せても、神の目から見れば、その時点で「ふたりは一体」だからです。

 集会で、兄弟・姉妹は自由に話してもよいし、男女が横に座っても善いし、つきあってデートしてもよいし、おでかけして、手をつないでもかまいません。キスは、まぁ聖書としてはOKですけれど、お互いの良心と相談してね。

 自分自身に関しては、マスターベーションはしてもいいからね。それを禁止する言葉は、聖書の中にはどこにもないです。

 でもセックスするということは、神の目から見て、ふたりは一体となるということだから、ずっと一緒にいることができるか、よく考えるようにね。セックスしてしまったなら、お互いが、神の前での責任を受け入れる必要があるということを、お互いが理解しておいてね。遊び感覚でしてはいけない。