業を誇ってはならないということ。信仰による義について

 業という言葉は「わざ」と読んで、おおむね「行い」ということを意味していると考えてよいと思います。救いは何によるかということについてははっきりとしていて、それは信仰によります。

まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。そうです,それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エフェソス2:8)

 業というのは、人を誇らせます。誇りは、口からねたみとなって飛び出し、人を傷つけ、人を汚します。そして、自分が得る救いが、自分の業によるかのように錯覚するということに陥ってしまいます。

 「わたしは、こんなに奉仕をしていて、立派なことをしているのに、どうしてあなたはしないの」とか「この時代に、飲んで食べる生活は、神からみて立派なことでしょうか」とか「わたしたちは宣教という立派なすばらしい業を行っています」とか、そんな言葉が心から飛び出してきます。

 まるで「個人研究」「集会」「奉仕」という業が、救いであるかのような、錯覚に陥ります。この三点セットが、すべての中で一番価値があるように語る長老や巡回監督は多いです。それが、信仰による義という聖書のもっとも大切なテーマを曇らせているということを、自覚してほしいです。

 そろそろこの三点セットが強調されるのは、その人を思ってではなくて「統治体による支配」を行いやすくするためだということに気づきましょう。個人研究をして、雑誌や文書を読めば読むほど、神の考えではなくて、統治体の考え方に染まっていきます。

 集会に欠かさず出席すれば、統治体からの文書によって、考えを染めることができます。奉仕に出席すれば、新しい人を集めることができます。

 「神への愛」「隣人愛」「信仰」というイエスが教えた土台はどこにいってしまったのでしょうか。「個人研究」「集会」「奉仕」という三点セットの前で、「神への愛」「隣人愛」「信仰」は脇に追いやられてしまっています。どちらが、土台なのか、よく考えて欲しいです。

 長老や巡回監督の口から「集会」「奉仕」「組織」という言葉は繰り返し聞くことがあっても「神への愛」「隣人愛」「信仰」という言葉は、ほとんど聞いた事がありません。ですから、僕たちエホバの証人は、土台になるべき考え方を、脇においているのではないかということを、自問するべきときだと思います。

 実際、根本的に土台となる考え方が、統治体によって腐敗させられていると感じます。

 統治体は「われわれの宣教の業はなんて素晴らしいんでしょう。200ヶ国以上の国や地域で、伝道しています。このような民はほかにいるでしょうか。われわれはなんて素晴らしいんでしょうか。統治体に感謝しましょう」といって、統治体の業を誇らせることによって、神とイエスへの信仰を台無しにしています。

 信仰の土台を崩しておきながら、わたしたちは神に導かれて、任命されていますといって、人々をだまし続けています。「神とイエスに任命されたわたしたちに従うことによって、神とイエスに従うことを示すことができます」といって、人々をだまし続けています。

 そろそろ、この偽りから、エホバの証人みんなで脱出しましょう。偽りの統治体からみんなで脱出しましょう。とはいっても断絶するとか、排斥されるとか、統治体の嫌がらせに、自分から進んでいくことではなくって、心の中から除きさるという意味です。偽りとともに歩むことは、皆さんの望んでいることですか?