義のために迫害されてきた人たちは幸いです

 今日は、イエスが語った山上の垂訓「義のために迫害されてきた人たちは幸いです」(マタイ5:10)について考えます。

 どうして義のために迫害される必要があるのでしょうか。ふっと疑問が浮かびますね。どうして、悪いことではなくって、義のために迫害される必要があるのでしょうか。

 でも現実というのは、やっぱりイエスがいったとおりであって、悪いことや罪を犯していなくても、公正や義を求める人たちは、苦難にあう傾向があります。

 義ではなくって、周囲に同調したり、権力に同調すれば、表面上の平和と一致が保たれます。けれども、義を求めるならば迫害されてしまいます。

 世の中では、真実や義を語ると排除されたり、いじめられたり、無視されたりする傾向があります。クリスチャン会衆の中では起こってはほしくないとは望みつつも、現実を見れば、残念ながら、このようなことが起こっています。

 特に、無視の問題というのは、すべての会衆に存在しているのではないかと、僕は予想しています。表面的には、うまくいっているように見える会衆であったとしても、少し近づくと、そこには、よいとはいえない人間関係があったりします。

 僕はいつも疑問に思うのですが、「最高の兄弟関係です」ということを公言して宣教している長老たちは、会衆の内部事情をよく知っているわけです。それならば、良心の呵責というのは、起こらないものなのでしょうか。それとも、組織を美しく見せるという至上命令が、あるのでしょうか。

 イエスは「義のために迫害されている人たちは幸いです」と言っています。悪いことをしていないのに、苦難にあうなら、あなたは幸いです。どうして幸いですか。神は公正な方なので、天からの報いは確かにあなたの手にあるからです。

 エホバ神は完全な天秤をお持ちです。終わりの時には、全ての不公正を取り除かれます。悪に対しては悪で、善に対しては善で報います。

 義のために、苦難にあっていたらどうでしょうか。公正の神ですから、あなたの受け分はなんと二倍です!(たぶんね!)

 そのようにして、主イエス・キリストは、当時苦難にあって、低い立場におかれた人々を励ましてくれたのでした。

「義のために迫害されてきた人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。」
(マタイ5:10)