本当に神の言葉を語っていますか。それとも人間の言葉ですか。
エホバの証人の兄弟・姉妹に黙想してもらいたい聖句がたくさんあります。神の言葉を吟味して、そこからよりよい選択を、自分でできるようになれたらと思います。権威のある人から聞いた言葉を、売り歩く人ではなくって、神の言葉を吟味できる人になりたいと思いませんか。
自立について
そして今,わたしはあなた方を神とその過分のご親切の言葉にゆだねます。
(使途20:35)
パウロは、神の言葉に育まれた人をいつまでも、自分に束縛したり、依存させ続けたいと思っていたでしょうか。それとも、神の言葉によって育まれて、自立してほしいと思っていたのでしょうか。
正しいといえる人はひとりもいないこと
義[人]はいない,一人もいない。
(ローマ3:10)
自分自身のことを正しいといえる人は果たしているのでしょうか。また、だれか他の人を正しいといえることができるでしょうか。ある人は正しい、ある人は間違っていると、心で裁くことは、どうでしょうか。権威あると認められている人に従うことが正しいという考えはどうでしょうか。
人間はだれひとり信頼にたる人ではないということ
地の人による救いは無価値なものだからです。
(詩編60:11)
地の人による救いは無意味です。たとえば、救いを特定の人間に依存させるこういはどうでしょうか。権威のある人に救いを依存させることはどうでしょうか。それとも、救いはイエス・キリストに信仰を働かせること以外にはないのでしょうか。皆さんは、「地の人○○兄弟」と「神の子イエス・キリスト」のどちらに信仰を働かせますか。
神ではないものを神のようにすること
あなたの子らはわたしを捨てて,神でないものにかけて誓いつづける。
(エレミヤ5:7)
神と人を混同したり、神と人を混同させて権威を身につけるということは、神を怒らせてしまうでしょうか。人間の言葉に、神と同等の重みをおくことは、エホバの憎むところとはならないでしょうか。人間の言葉に対して、神からのメッセージという印象を与えて、語り続けることは、エホバが離れていく原因にならないでしょうか。
行っている業を誇ること
外見を誇って心を[誇ら]ない人たちに対する[答え]をあなた方に得てもらうためです。
(コリント第二5:12)
外見を誇ることによる救いはあると思いますか。それとも、救いは、イエス・キリストへの信仰によると思いますか。時間、人数、規模を誇ることは、外面を誇ることにならないでしょうか。外面に注意を払いすぎて、内面がおろそかになるということはありませんか。