異なる価値観を持つ人を悪者扱いすることについて

 いろいろなブログを読んでいると、このことに苦しんだという人は、多いんじゃないかと思っています。まず他の人の価値観に対して、組織の方針に反しているかどうかという価値観で、観察する人が多いです。これは、巡回監督や長老で特に顕著です。

 たとえば18歳でおつきあいをして、20歳で結婚することについて考えてみましょう。周囲はどんな目で見ると思いますか。そして、反対に、30歳くらいまで開拓奉仕をして、長老に任命されて、その後結婚するという流れならば、周囲はどんな目でみると思いますか。

 残念ならが、エホバの証人の社会では、前者よりも、後者のほうが圧倒的に評価が高いんです。前者は後ろめたく罪悪感のようなものを感じますし、責める人もいるでしょう。後者であれば、何の問題もない結婚とみなされます。

 でもどうして、罪ではないことにおいて、その人が心の責めを追わないといけないんでしょうか。どうして罪ではない分野においての決定に対して、その人が罪悪感を感じなければならないのでしょうか。

 それは、若さの盛りを過ぎてからの結婚を長老や巡回監督が、兄弟・姉妹にすすめるからです。そして、その年齢が30歳前後という価値観があって、それまでは独身を活用して、宣教奉仕をすることがよいという価値観があるからです。

 この価値観が、中央にあるので、それ以外の決定をする人の心に、罪悪感が発生します。他の人間が決定した善いという基準のせいで、そこから外れる人に罪悪感や恐怖が生じます。罪ではなく、その人の決定が尊重されるべき分野で、それはだめだとか、それはよくないと判断することが、広く行われてしまっています。

 わかりやすくいうと「独身という身分を若い時代に宣教奉仕に捧げることができない人は劣等生」なんです。「独身という身分を若い時代に宣教奉仕に捧げている人は優等生」なんです。前者はうとまれ、後者は賞賛されます。

 罪悪感を生じさせているのは、このような偏った人間の価値基準が原因です。

罪悪感は、人間による偏った価値基準によって生じる

 たとえばブログを書くこともそうです。ブログを書いた開拓者を、ブログを書いたという理由だけで、巡回監督と長老は、開拓者を降ろしたという事例もあります。

 こうなるともう、その人の良心で決定するということが、不可能になってしまいます。アドバイスと言いながらも、実質的には、半強制というくらいの強い圧力がかかります。特権を取り上げるぞという恐怖は、特権を持っている人にとっては、本当に大きなものです。

 強制しませんといいながら、罪悪感や同調圧力を利用することによって、人の心を支配しようとするなら、それを行っている人はずるい人です。