ものみの塔研究考察「真のクリスチャンという言葉には違和感がある」
ものみの塔研究の考察を再開しますね。今までは、毎週記事にそって、副見出しごとに、批判していたのですけれど、これは体力的、精神的に非常にハードでした。
それで、今回からは、ものみの塔研究について、週に一度、ひとつのテーマを決めて、書いていきたいと思います。これだと、僕も楽チンです。
今回は真のクリスチャンという言葉について考えたいと思います。前回のものみの塔研究には、真のクリスチャンという言葉が登場していましたね。この言葉は、ものみの塔研究の中でも、けっこうでてくる回数が多いんじゃないかと思います。
僕は、真のクリスチャンという言葉には違和感を感じます。使わないほうがいいと思います。その理由はいくつかあります。
自分たちが善くて正しいという傲慢の実を生み出している
真のクリスチャンと書くということは、自分たちが真のクリスチャンであると自認しているということです。自分たちは、真のクリスチャンで、他のクリスチャンは偽者のクリスチャンだといっていることになります。
これは、自分たちだけが、真のクリスチャンで、他のクリスチャンは、偽者のクリスチャンといい続けてきた、ものみの塔協会の伝統を受け継いでいます。
エホバの証人だけが正しくて、他の宗教は間違っている。他の宗教は、大いなるバビロンといい続けることは、本当に、立派なことなのでしょうか。
エホバの証人の兄弟・姉妹に、自分たちは正しくて善いという感覚が育って、他の人を見下げる傾向ができているとしたら、それはパリサイ人、そのものではないでしょうか。
自分たちはもう真理の中にいるとか、自分たちだけが真理を知っているとか、自分たちだけが真のクリスチャンという感覚は、謙遜に真理を探求するということの妨げになっていると思います。
組織を高めるということは、国家を高める国家主義と同じであるということに、まだ多くの兄弟・姉妹は、気づけていません。神の組織といって、組織崇拝をすることが、偶像崇拝であるということに、多くの兄弟・姉妹は気づけていません。
自分たちが真のクリスチャンだと自称することは、僕たちの心を傲慢にすることに役立っていると思います。
では、イエス・キリストが伝えたことはなんでしょうか。
木は実によって知られる
それは「木は実によって知られる」ということです。
木はその実によって知られるのです。
(マタイ 12:33)
ふたつの木があるところを想像してみてください。ひとつの木には「本当によい木」と、張り紙が張られています。もうひとつの木には、何も張られていません。
けれども、考えてみてください。「本当によい木」かどうかということは、張り札によって決まるわけではありません。収穫のときに、よい実をつけたかどうかでわかります。
パリサイ人たちは、自分たちを「よい木」に見せることに熱中していました。彼らは、善くて正しい人たちと呼ばれていました。けれども、その心のうちは、傲慢でいっぱいでした。立場の低い人が追いやられるという、悪い実を生み出していました。
反対にイエスは、外面から見れば「悪い木」でした、当時では恥とされる、張り付けの計によって、死を遂げました。けれども、イエスは、永遠の命というよい実を生み出しました。
ですから「真のクリスチャン」と自称することは、自分たちを傲慢にしてしまうと思います。盲目の案内人になってしまいます。反対に、罪についての自覚があれば、謙遜に神を求めることができると思います。