聖霊ってなんだろう

 僕は、聖霊については、実は、ものみの塔協会の考え方とは、少し違った考え方を持っています。聖書を読み始めて、電池のようなものというたとえは、若干違うのではないかという印象を持ち始めました。

 また、聖霊が、ひとつの人格であるというのも、違うと思います。

聖霊とは「神の思い」である

 僕が今持っている聖霊のイメージは、聖霊とは「神の思い」であるというものです。

聖霊とは「神の思い」

 聖霊というのは、聖なる霊という意味です。聖なるというは「神は聖なる方」と書かれているので「神の聖なる」という意味です。

 霊という言葉は、いろいろな範囲がありますけれども「思い」と訳すのが、ぴったりな部分がほとんどなのではないかと思います。

 たとえば「聖霊を悲しませてはなりません」という部分は「神の思いを悲しませてはなりません」と読めます。

 「霊によって導かれた」は「神の思いによって導かれた」と読めます。だから、聖霊というのは何か神秘的な力や、奇跡的な力ではなくって「神の思い」であって、それが導く力として働くのだと思います。

 聖霊は、電流のような無機質のものではなくって「親の思い」や「愛する人の思い」のような気持ちがこめられた「神の思い」だと思います。

 だから、イエスの弟子たちが霊によって動かされるとき、そこにあるのは、無機質なエネルギーの流れがあるのではなくって、神の思いがあるのだと思います。神の思いが、人の心に作用するので、人は動かされます。

 聖霊によるバプテスマというのは、神の思いによるバプテスマといえますね。ヨハネバプテスマまでは、水という物質が関係しています。外面や形が関係しています。一方、聖霊によるバプテスマというのは、神の思いという見えないものが関係しています。

 神は見えない方ですので、水のバプテスマよりは、聖霊によるバプテスマのほうが、重要だと思います。聖霊によって満たされるというのは、神の思いによって満たされるということです。

 僕たちエホバの証人は、聖霊という言葉を、たくさん使っていながらも、その実質的なイメージや、実際にそれはどのようなものなのかについて、ぜんぜん考えてこなかったように思います。ただ、お守りのように聖霊という言葉を使っているのではないでしょうか。

 でも、僕は、聖霊というのは、もっと実質的なもので「神の思い」なのではないかと思います。あなたを愛する神の思いです。