コリント第一7章39節「主にあるものと結婚しなさい」という訳は間違っている可能性が高い

 エホバの証人は、聖書の中の「主にあるものと結婚しなさい(コリント第一7:39)と書かれている部分を、主にあるものと結婚するという規則だと考えている人が非常に多いけれど、これは訳としても、ルールとしても、どちらも間違っている可能性が高いと思います。

 エホバの証人の現実としては、エホバの証人でない人と結婚したとすると、冷たい目で見られます。そして、特権を取り上げられるという懲罰があります。それは、この聖句が元になっていますが、訳としても、解釈としても、いくつかの問題があります。

 もともとの原義としてはこの部分は「主にあって」と訳します。つまり「主にあるものと結婚」というよりは、「あなたが主の元にい続けて、結婚しなさい」という意味の可能性が高いです。

 この部分の聖句は一般的な人に向けられて書かれた聖句ではなくって、やもめに関して書かれた聖句です。つまり、男にめとられると、その宗教にやもめが変わってしまうという文化や習慣が強くあるために、パウロはやもめに対して「結婚した後も、あなたはイエス・キリストを信仰し続けなさい」といっていると解釈することができます。

 原文を直訳すると「けれども夫がもし死ねば、ただ主のもとにあって、欲するままに結婚する自由を得ます。」となるそうです。

コリント第一7章39節は「けれども夫がもし死ねば、ただ主のもとにあって、欲するままに結婚する自由を得ます。」と訳すことができる。

 新世界訳聖書のこの部分は変だなぁ、変だなぁと思っていたのですが、やっと自分の中で決着がつきました。だれと結婚するかについて、この部分以外に、聖書が結婚の規則を定めたようなものがないということは知っていたのに、この部分でだけ規則のようなものをパウロが定めているからです。またパウロが、やもめに語っているのに、ものみの塔協会が、エホバの証人全員に求めてきたからです。

 だから、インターネットでこの聖句を調べているうちに、訳に問題があって、意味が違うかもしれないということに思い当たりました。すると、僕の思っていたとおり、複数の訳の可能性がありました。

 つまりポイントは「結婚相手がイエス・キリストを信仰しているか」ではなくて「やもめ自身がイエス・キリストへの信仰を保ち続けることができるか」ということです。

 聖書の基本的な考え方として、イエス・キリスト以後は、律法が廃棄されたので、なんらかのルールのもとに、僕たちはいるわけではありません。書かれた規則によって裁こうとする人は、はっきりといってしまえば、イエス・キリストのもとにはおらず、イエスが廃した律法のもとにとどまっていることになります。

 主のもとにいるということが、主が任命した人が定めた規則のもとにいることと解したすれば、それはもはや、主のもとにいることにはなりません。ですから、だれかが定めた規則のもとにいるのではなくって、主にあって生きていきませんか。