ものみの塔研究考察「神権的とはどういう意味か」

 僕はものみの塔研究は、ちゃんと聖書に書かれていることを説明してほしいなぁと思っています。ものみの塔協会の思想・信条を含めてほしくはない。でも残念なことに、毎回少しづつ、組織の思想を売り込もうという魂胆が研究用ものみの塔には見え隠れする。

 それで今回は神権的という言葉の意味を考えてみたいと思います。昨日のものみの塔研究を思い出してみてください。次のような一文がありました。

神の指示は、恐らく会衆という取り決めを通して、神権的に与えられます。
(2013年3月号p23)

 神の指示は、会衆を通して与えられるという根拠薄弱なことが書かれてこちらもつっこみたいのですが、今回は神権的という言葉について考えます。テーマをひとつにしぼって、毎週ひとつづつ考えて生きます。

「神権的」という言葉の意味は、聖書とは何の関係もないという意味

 逆説的なのですが、神権的という言葉は、聖書とはなんの関係もないという意味です。たとえば、週二回の集会が神権的な取り決めですというふうに使われる場合は、それは聖書に書かれていませんので、聖書に基づくものではなくて、神権的なものです。

 たとえば、年に3回の大会は、聖書には書かれていませんので、これは神権的なものです。また、統治体から長老に宛てられる手紙は、聖書的な根拠はまったくないので、神権的なものです。

 僕のいいたいことが見えていますでしょうか。つまり神権的という言葉は、聖書とは何の関係もない文脈で、神の権威を利用したい場合に使われています。

 神権というのはtheocracyという英語です。神権政治という意味でもあります。これは、聖書からは導き出せないものなのですが、ものみの塔協会は、ずっとこの言葉を使い続けています。

 つまり「神権的な方法」というのは「神から是認された人々による政治」という意味です。神権的な事柄に注意を払いなさいというときには「神から是認された人々による政治」を尊重しなさいという意味です。たとえ、言動に聖書的な根拠はなにひとつなくとも、神に是認された人々の言葉に従いなさいという意味です。

 どんなに奇妙な教えであろうとも、どんなに誤っていようとも、どんなに人を傷つけようとも、「神に是認された人々の言葉に従いなさい」と言う意味です。

 でも僕は言い切ってしまいますが、神権政治というのは腐敗の温床です。なぜなら、だれが神に特別に是認されているかということは、だれの目から見てもまったく明らかではないからです。それを主張してしまうと「だれが一番偉いのか」という論争に発展することになります。

 逆説的ですが、神権的な方法というのは、聖書の教えからもっとも遠ざかっている方法であって、神からのものではないです。神という言葉が入っているからといって、惑わされないようにしましょう。神権的な方法は、いつの時代も、神の権威を主張する人間の方法でしかなかったからです。

 人間の組織を偽って、神の組織ということが、神権的な方法です。ですから、僕たちは、神権的な方法を避けるようにしたほうがいいです。そうではなくって、神の言葉を土台にしましょう。神の権威を借りた人間の言葉を土台にするのではなくって、神の言葉そのものを土台にしましょう。