神権的な取り決めを賛美したり、感謝したりするのはもうやめにしませんか

 昨日に引き続いて、もう少し神権的な取り決めということを考えたいと思います。神権的な取り決めという言葉を聴いたなら、少し注意して、距離を置いたほうがいいように思います。

エホバの証人の歴史は、神権的な取り決めを賛美する歴史

 ものみの塔協会は、神権的な取り決めという言葉を使って、人間が作り出した制度を賛美させることをずっと行ってきたように思います。神を賛美するのではなくて、摩り替えて制度を賛美させるという活動をずっと行ってきたように思います。つまり、神ではなくて、神権的な取り決めを賛美させるようにしてきました。

 神や隣人ではなくて、制度に対して多くの誉れを与えてきました。たとえそれによって人が犠牲になろうとも。

 たとえばこんな言い方がなされます。「大会は忠実で思慮深い奴隷が、入念に準備してくれたものです。大会に感謝をしめしましょう。それによって、神への賛美を表すことができます。」

 この言い方を見ると、エホバへの賛美を摩り替えて、神権的な取り決めである大会を賛美させることになっているということがわかりますね。このパターンは、いたるところにあらわれてきます。

 たとえばまた別の言い方。「大会がこのように組織されているのはなんとすばらしいことでしょう。組織的に行われているということに、もっと認識をしめしましょう。」またこういうことによって、大会という神権的な取り決めに賛美を与えようとします。

 その結果、神や個人よりも、大会に出席するということが、上位の価値として、心の中に根付いてきます。つまり、神や隣人よりも、神権的な取り決めを支持することのほうが、はるかに大きな価値をもつようになってしまいます。

 集会に対する認識、奉仕に対する認識ということは繰り返し語られます。開拓者になることが、いかにすばらしい生き方であるかということ。開拓学校では、会衆のみんなから、お弁当を作ってもらったり、お菓子を食べながら、授業を受けるという待遇を受けるということ。つまり、開拓者に誉れを与えるということ。

 また、ものみの塔協会の提供する各種の学校に対しては、大きな賛美が与えられます。この学校に行くことはひとつのステータスになっています。またべテルで働くということもひとつの大きなステータスになっています。

 このように神権的な取り決めにたいして、大きな賛美を与えるという方法が、ものみの塔協会の方法の大きな流れになってきました。隣人ではなくって、集会、大会、開拓奉仕、増し加えられた特権、また種々の制度、このようなものに、多くの賛美を与えることによって、個人を犠牲にしてきました。

 神権的な取り決めや組織が、人間の上に君臨し、神と隣人への愛をおろそかにしてきました。排斥は、神権的な取り決めです。輸血拒否によるみなし断絶は、神権的な取り決めです。ものみの塔協会は、神権的な取り決めを支持するかどうかで、エホバへの忠節が問われるといい続けてきました。

 でも神権的な取り決めというのは、聖書的には何の根拠もなくて、たんなる人間が定めた制度に過ぎません。このようなものを賛美するようになると、神権的な取り決めに服さない人は、おろかな人で、おかしな人で、劣った人で、サタンに近い人で、背教的な人のように見えてきます。目がどんどん曇っていきます。

 そうならないうちに、神権的な取り決めを賛美したり、それに感謝したりするのはもうやめにしませんか。神を賛美しませんか。今の状況を難しいと感じている仲間の心に目を向けませんか。