エホバの証人とそうではない人の間にある隔たりについて

 エホバの証人とそうではない人には大きな隔たりがあります。つまり、心の中では神とイエスを信仰していても、ものみの塔協会が提供するバプテスマを受けているかどうかで扱い方に大きな差があるということです。

 外見上のバプテスマという儀式によって、その人を大きく区別するという現在の方法は、僕はよいものであるとは思っていません。単に過去にバプテスマを受けたかどうかとか、今バプテスマを受けているかどうかとか、そのような外見上の事柄で、扱いに差がでるとしたら、大きな不公平が生じることになります。

水のバプテスマが宗教団体に属することの儀式になっているということについて

 エホバの証人だけではなくって、どのキリスト教系の宗教団体にも言えることかと思いますが、水のバプテスマが、その宗教団体に属するということの儀式となっている場合が広く存在すると思います。

 しかし本来であれば、宗教団体に属するとうことと、水のバプテスマというのは、切り離されていなければならないと思います。そして、外見上の水のバプテスマを受けたかどうかで、その人に特別な差をもうけることは、聖書的な観点からいえば、間違っていると思われます。

 バプテスマを受けているかどうかで、そうではない人との間に大きな隔たりを設けるという現在の制度は、エホバの証人の社会に大きなゆがみをもたらしていると僕は考えています。

 たとえば「研究生というのは進歩すべきわたしたちよりは劣った人」という見方がありますね。エホバの証人になるという外面上の事柄や、増し加えられた特権を得るという外面上の変化が、進歩とみなされる傾向があります。

 外面上のものよりもはるかに大切なことは、心に書き込まれた律法、つまり内面的なものです。神とイエスへの信仰です。内面に基づいて、各個人が、その人がクリスチャンかどうかを判断すればよいのであって、宗教団体が与える儀式によって、その人がクリスチャンかどうかを定めることは、いまだに律法に属する人になっている可能性が高いです。

 外面上のバプテスマによってではなくって、信仰によって、思いを共有できる人になりたいものですね。たとえば、結婚においても、過度な差別的な扱いをもうけたり、劣った結婚という見方をするのではなくって、ちゃんとお祝いすればいいと思います。