イエスが受けたバプテスマの意味について
ものみの塔協会は、イエスが受けたバプテスマの意味は、今僕たちが受けるバプテスマの意味とは異なると説明しています。その根拠は、イエスには罪がなかったので、罪の悔い改めのバプテスマを受けるというのは、おかしいというものです。
ですので、ものみの塔協会は、イエスのバプテスマに対して、異なる意味づけをしています。でも、本当にこんなことをわざわざする必要があるのでしょうか。
イエスは罪人として死んだ
福音書のお話はこんなお話です。イエス自身は、神に対して何の罪も犯していませんし、罪を受け継いで生まれてきたわけでもありません。けれども、イエスは、人間の罪のあがないとして処刑されます。
つまり、罪人ではないのに、罪人として処刑されるというお話です。イエスは、人間ではなかったのに、地上に人間としてこられました。人を愛していたからです。イエスは、罪人ではなかったのに、罪人として死にました。
ヘブライ人への手紙にはこうあります。
わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできない方ではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のない方を,大祭司として持っているのです。
(ヘブライ 4:15)
イエスが、わたしたちと同じようにならなければならなかったのであれば、イエスがバプテスマを受けたことの意味も、わたしたちと同じものだと解することは、不自然ではない気がします。
イエスに罪がなかったので、罪の悔い改めのバプテスマがおかしいのではなくって、イエスはわたしたちと同じように罪人とみなされなければならなかったとすれば、バプテスマは同じ意味であると考えてもよいと思います。
そしてイエスは、バプテスマによって、再び「神の子と是認された」というところもポイントです。「神の子 -> 罪人 -> 神の子」というプロセスは、神の子(アダム) -> 罪人 -> 神の子」とたどる僕たちのプロセスと同じです。