ものみの塔研究考察「取り決めという名前の律法主義」

 エホバの証人になると取り決めという言葉を頻繁に耳にすると思います。「取り決めだから大切にすべき」という意見が、大勢を占めています。でもちょっとまってください。僕たちは、一度聖書を調べてみないといけません。それは大量の取り決め、型、手紙による指示、ローカルルールが存在することが、神のご意思と調和しているかということです。

 イエスが弟子たちが、繰り返し述べていることは信仰によって歩むということです。間違っても、取り決めによって歩みなさいなどとは、ひとことも言っていません。信仰によって歩む必要があります。一時的に何かを行うときに、便利な手順を作ることは、それが皆の同意が得られているならばよいこともあるでしょう。けれども、取り決め自体を神聖視して、上位下達で決めてしまうようなやり方は、まさに律法主義といえます。

取り決めによって歩むことは、律法主義に陥ってしまう危険がある

 ですから取り決めを決して無条件で支持するようなことをしてはいけないです。それは、取り決め崇拝、取り決め信仰です。また偶像崇拝でもあります。何かを決めるときは、兄弟・姉妹の声を聞いたほうがよく、かってに決めて指示するのはよくありません。

 さて今日も研究用ものみの塔2013年4月号「うみ疲れてはなりません」を読んでいきましょう。

組織上の取り決めを支持する

 副見出しはこんなんですが、盲目的に支持しては絶対にいけません。一時的に従うとしても、その内容については、兄弟・姉妹みんなが吟味して、意見を述べる権利があります。意見を述べる人を、背教者とみなしたり、危険人物とみなして無視する、暴力的な手段を、ストップさせる必要があります。

 さて統治体の妄想が始まります。

使途ヨハネに与えられた幻の中のイエスは、エホバに反逆する者たちを征服するために白い馬に乗っています。そのすぐ後ろに忠実なみ使いたちがいます。すでに天で報いを受けた油そそがれた征服者たちも、イエスとともにいます。何と信仰を強める光景でしょう。エホバの取り決めを支持する点で、これ以上の手本があるでしょうか。
(p30)

 何を言っているか意味がわかりませんせんが、太字の部分を見れば、何を関連づけたいかということがわかると思います。聖書の記述はもはやどうでもよくって、聖書の記述を使って、「油注がれた者」と「エホバの取り決め」というものを、エホバの証人の心の中で強くひもづけたいという隠れた意図があります。

 こんな風に、サブリミナルな印象操作を使って、心の中にすりこむというやり方を、ものみの塔協会はずっと続けているので、注意しましょう。

 さて次の文章。統治体の権威を高めるための文章です。

大群衆もその手本に倣い、地上の組織の中で指導の任に当たっている油注がれた兄弟たちの業を十分に支持しています。
(p30)

 ものみの塔を書いている人の側が言う言葉ではないですね。ちゃんと匿名でアンケートを取ったらいいんです。インターネットでアンケートをとってみるのも面白いかもしれませんね。こんな風な表現になるのは、強制しているという印象を与えないためです。つまり、言うだけ言っておいて、自分たちは言葉の責任を取らないというお約束のパターンです。

 次は長老の権威を高めて、長老をうまく利用して、自分たちが責任を逃れて、会衆をうまく支配する方法について書かれた部分です。

では、エホバの取り決めに対する支持を個人的に示すためには、どうしたらよいでしょうか。その一つは、指導の任に当たっている人たちに従うことです。それは自分の会衆から始まります。
(p30)

 結局これが、統治体の会衆支配に役立っているのですから、今は僕たちは、こういう言葉に従わないほうがいいです。長老も小さな特権だけに喜ばされて、削除の恐怖に震えて、便利に利用されているので、かわいそうです。巡回監督と組織のことばかりが頭の中にあって、神への信仰や仲間への愛を示すこともできていません。

 長老たちと兄弟・姉妹という関係を取り戻すために、どんどん意見を言ってあげましょう。

 長老、巡回監督、日本支部、統治体に、どんどん意見を言ったほうがよいと思います。まずは、疑問を持ったり、意見をのべることを背教的とみなしたり、危険人物視して無視するという風潮をストップさせることから、スタートしませんか。特権を持った人は守られ許され、立場の弱い人は追いやられ、排除されるという現実が、ブログを読んでいると本当にたくさんあることに気がつきます。

 今回のものみの塔研究の記事は最悪の記事です、神への信仰はこれで育つわけはない、と僕は言っておきます。

 長老を賛美するように勧める記述が続きます。そこには、子供たちや、個人個人がどんな風に感じるかといったことへの配慮はまったくありません。

長老たちについて語るあなたの言葉を聞いた人は、長老たちとその働きに対する敬意を深めるでしょうか。子どもたちにも、そうした忠実な男子に敬意を払い、聖書の助言を求めるように勧めますか。また宣べ伝える業のための寄付について、家族として計画を立てますか。
(p30)

 あらゆる人に対する敬意という聖書が述べる重要な観点はどうでもよくって、統治体の会衆支配のために、長老の権威を高めることだけに関心があるようです。僕は言っておきますが、長老たちの助言はまったく役に立ちません。その助言は、組織弁護のために個人を制約するという観点でしか語らないからです。

 言いたいことは「個人と組織がどちらが大事か。組織ではありませんか。組織の考えのために自分の考えを捨てなさい」ということだけなので、長老の助言は何の役にも立ちません。

 長老になんて相談にいかずに、秘密をきちんと守ってくれる、信頼できる友に相談しましょう。