聖書は公正がテーマのひとつになっている

 公正ということについて、エホバの証人の兄弟・姉妹は、まだ真剣に考えたことがないんじゃないかなぁというのが、今僕が感じていることです。公正が機能していなければ、その場所はとても過ごしにくい場所になります。一部の人にとってはすごしやすいかもしれませんけれど、他の人には過ごしにくい場所になります。

 聖書という書物は、最初から最後まで、公正がテーマになっています。気づいていましたか。

聖書という書物は公正がテーマのひとつ

 公正とはなんでしょうか。イメージを書いてみますね。両方の天秤がつりあっていること。偏り見ないこと。だれにたいしてもわけへだてなく接すること。富や特権でその人の価値を判断しないこと。弱い立場の人が守られること。子供たちや、やもめの女性が守られること。つりあっていること。

 人を自分自身のように愛すること。罪に対して、必要以上に、打ちたたかないこと。愛する人が許されること。神の前で、特定の人を高めないこと。神の前で、皆が謙遜に並んで歩むこと。

 こんなイメージです。

公正というテーマを頭の中において聖書を読んでみる

 公正というテーマを頭の中において聖書を読んでみると、今までよく理解できなかったことが、理解しやすくなると感じています。神が繰り返し、繰り返し言うことの意味もだんだんとわかってくる気がします。いくつか見てみましょう。

あなた方はどんなやもめや父なし子も苦しめてはならない。もしこれを苦しめるようなことがあって,その者がわたしに向かって叫ぶことになれば,わたしは間違いなくその叫びを聞く。そしてわたしの怒りはまさに燃え,わたしは必ず剣をもってあなた方を殺し,あなた方の妻はやもめとされ,あなた方の子らは父なし子とされるであろう。
(出エジプト記 22:22-23)

 神の思いは、弱い立場にある人に対して、不利益をもたらしてはならないというものです。もし苦しいという状況が高まってきたなら、その声を聞くとエホバはいいます。そして、不利益を与えている人に、必ず同じ不利益を与えるであろうといいます。イエスがいったように「あなたが裁いているそのはかりで、そのまま裁かれる」のです。そのようにして公正が回復されます。

 反対に、弱い立場にある人を愛するならば、神から愛され許されます。「多く愛したゆえに、多く許される」のです。このようにして神は公正を保ちます。

 次に「神に○○するならば、神は○○するであろう」という聖書の形をいくつかみてみましょう。神は忠節で、公正な方なので、決して裏切ったりはされないということです。あなたが神に行えば、神は必ず返してくれるということです。

わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう。(マラキ 3:7)
わたしが呼びかけるとき,エホバご自身が聞いてくださる(詩篇 4:3)
忠節な者には,あなたは忠節をもって行動し,とがのない,強健な者には,とがのない仕方で対処されます。(詩篇 18:25)
[自らを]清く保つ者には,あなたはご自身を清い者として示し,曲がった者には,ご自身をねじけた者として示されます。(詩篇 18:26)

 神は反射するように、あなたを助けてくれます。あなたが神を求めれば、神はあなたを求め、あなたが神を愛すれば、神はあなたを愛し、あなたが神と和解すれば、神もあなたと和解します。

 反対に、神に対して悪を行い続ければ、反射するようにして、その報いを受けるときがくるでしょう。聖書には存在しない、奇妙な教えをもし抱き続けるのであれば、その人はまさにその言葉のゆえに裁かれるでしょう。それは長くは保たず、神によって打ち砕かれるでしょう。「青草は干からび,花は枯れた。しかしわたしたちの神の言葉は,定めのない時に至るまで保つのである」とあるからです。

 一度、公正ということについて、エホバの証人の兄弟・姉妹のみなさんに考えてほしいと思っています。会衆に公正が保たれているかということです。過度に不利益をこうむったり、後ろめたかったり、責められた気持ちを持っている人がいないかということです。賞賛され権威を与えられる人がいる一方で、無視されたり、低く見られている人がいないかということです。

 子供たちが過ごしやすい場所になっていますか。ひとり身の女性が過ごしやすい場所になっていますか。特別な立場を持つ人に感謝や賞賛が与えられ、権威が与えられる場所になってはいませんか。チェックしてみましょう。

 会衆に公正が保たれるなら、その場所は過ごしやすくなると思います。