真理を探している途上であるということ

 「どこに真理があるのか。」そういう疑問を持っておられる方も少なからずいるかもしれません。でもね、もうすでにたどり着いていると思い込んだとしたら、それは思考を停止する道なのかもしれませんよ。

 永遠の命へと歩みを進めるその道の途上にいると考えたほうが僕はよいと感じています。すでに真理のうちにいるのではなくて、真理を理解する途上にいるという感覚です。それが、終わりまで続きます。

 いくつかの聖書の言葉を考えてみましょう。まずは箴言です。

理解を求めて呼ばわり,識別力を求めて声を上げるなら,銀を求めるようにそれを求めつづけ,隠された宝を求めるようにそれを尋ね求めつづけるなら,そのとき,あなたはエホバへの恐れを理解し,まさに神についての知識をも見いだすことであろう。
(箴言2:3-5)

 ここでは、求め続けるなら、見い出すと書かれていることに注目してください。すでに見つけられたものではなく、求め続けるなら、見出すであろうと書かれているところがポイントです。

 謙遜に探し続けるという姿勢が大切なことがわかりますね。もう見つけたといってしまったら、傲慢になってしまいます。ですから、真理はどこにあるのかということではなくて、見い出す過程とか、その途上にいるという感覚を持ったほうが、僕はよいと考えています。

 さて次は、パウロの言葉を見ましょう。

そして,[自分の]理解に関する十分な確信という富のすべてを目ざし,また神の神聖な奥義であるキリストに関する正確な知識を目ざして,彼らが愛のうちに調和よく組み合わされるためです。
(コロサイ2:2)

 ここでは「正確な知識を目指して」とパウロがいっていることに注目してみましょう。もうすでに正確な知識を持っているというわけではなくて、それは部分的なもので、正確な知識を目指して歩むというところが、目標となっています。

わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。
(コリント第一 13:9)

 エホバの証人の兄弟姉妹のみなさん、もしまったくの真理を自分は得ていると思い込んでいるとしたら、それは錯誤なのかもしれません。だれかが、真理を与えているというのもまた錯誤です。結局は、聖書に書かれている知識や予言というのは断片的なものであるということを、謙遜に受け入れる必要があると思います。

 ですから、これが正しいと早急に決めてしまうことは控えるべきだし、そのように語る人の言葉を安易に信じるのも控えたほうがよいと思います。知識や予言は部分的なものです。自分が真理を持っていると唱えることよりも、クリスチャン皆が、正確な知識を目指して歩み、愛によって結び合わされるということのほうが、ずっと大切なのではないでしょうか。

 キリストが分裂していては、僕たちは何も達成できないではありませんか。