巡回監督はお金をもらって働いているので特に誉れには値しない

 巡回監督は、会衆から多くの誉れを受けるべきとする、ものみの塔協会の方針があります。それは、次の聖句が都合のよいように解釈されているからです。

りっぱに主宰の任を果たす年長者たち,とりわけ,話すことや教えることに骨折っている人たちを,二倍の誉れに値するものとみなしなさい。「脱穀している牛にくつこを掛けてはならない」,また,「働き人はその報酬を受けるに値する」と聖句は述べているからです。
(テモテ第一 5:17-18)

 この聖句は一見すると、立場に対して、誉れを与えるようにと読めるかもしれません。でも、よくみてみると、主催の任を果たしているとか、話すことや教えることに骨折っている人という、仕事について語られています。

 さらにパウロは「働き人は報酬を受けるに値する」といっています。つまり、この聖句は、統治体、巡回監督、長老といった、立場やステータスについて語っているのではなくって、働きや仕事について語っている聖句です。

 たとえば、何人かのクリスチャンを家に迎えたとしましょう。そして、そこで食事を無償で提供してくれて、食事の席に招いてくれたとします。家の人は、無償で働きました。迎えいれたいという気持ち、集まって有意義な時間を過ごしたいという気持ちからそうしました。

 きてくれた人が「ありがとう。楽しかった」といってくれたらうれしいですね。あたりまえのように食べて、何も言わずに帰ったら、ちょっと悲しいですね。人間ですもの。

 ですから「無償の働きをしてくれた人に対して二倍の誉れ」が与えられる必要があります。骨折った無償の働きに対しての、心による報酬です。ここにも、神の公正の原則が見られるのです。

 間違っても、統治体、巡回監督、長老といった立場やステータスに対する誉れを与えてはいけません。聖書は、無償の働きに対しての、補われるべき誉れについて語っているからです。

 だから、まず巡回監督というステータスに誉れを与えるのはやめましょう。また巡回監督はお金をもらって働いているので、この点でも、特に誉れを受ける理由はないです。

 どちらかといえば、奉仕の僕の兄弟のほうが、巡回監督よりも、多くの誉れを受ける必要があります。奉仕の僕の兄弟は、時間を裂いて、無償で会衆に必要な仕事をしてくれているからです。

 巡回監督は、会衆からの寄付によって、有償で働いて、生活しています。また週一回の休みもきちんとあります。休暇もきちんととれます。反対に、開拓をしている奉仕の僕の兄弟には、週一回の休みも、長期の休暇もありません。働きもすべてが無償です。(せめて、ゆっくりとした休みや休暇をとってください。仕事は断ってもいいんですよ。時間なんて入らなくってもいいじゃない。)

 エホバの証人の兄弟・姉妹に言いますけれど、誉れを与える対象が間違っています。誉れは、ステータスに対して与えられるべきではなくって、働きに対して与えられるべきです。

 より増し加えられた特権に対してではなくって、愛ある働きに対して、与えられるものです。それで、会衆のみなさん、巡回監督に多くの誉れを与えて、目立たないがよい働きを影でしている特権をもたない兄弟を見下げていませんか。

 クリスチャンの兄弟・姉妹として同じように接することができているでしょうか。