べテルの工場作業で障害を負ってしまった場合のものみの塔協会の対応
「エホバの証人とこころの病の問題」という本が翻訳されていて、エホバの証人の実際の事例がたくさん掲載されているので興味深い。
僕はエホバの証人とうのは、時に冷酷になるということをお伝えしてきましたけれど、特に組織というものが前面にでてきたときには、愛は冷め、過酷で冷淡な存在になってしまいます。普段優しい人が、組織という巨大な恐怖を前にして、過酷で冷淡になってしまいます。
組織というのは、頼りにしても、結局いざというときには、何も愛を示してくれませんし、何の役にも立ちません。だから、長老たち、姉妹たち、もう組織、組織と、繰り返すのは、やめましょう。
さてこれは、べテルの工場作業で障害を負ってしまった人に対するものみの塔協会の対応です。
ものみの塔のヒエラルキーが信者にしばしば見せる冷淡さと無頓着さの一例を次に示そう。
若いベテル労働者が大型のプレス機械の操作に割り当てられた。なんの経験もない状態から始めたが、同僚がプレス機の操作方法をゆっくり学べるようにさせて、訓練を受けた。このとき偶然にもプレス機に手を挟まれ、指を何本かなくした。
そうした事故があったら事務所の仕事のような片手でも働ける部門に人情をもって配転するだろう。しかしものみの塔の反応には人情がなかった。もはや雇う気はないと言って、帰郷するように伝えた。
明らかに彼の才能は他の分野でも発揮できたのに、ものみの塔は自分の都合だけ考えて、指が全部ある者のほうがよけい働いてくれるだろうと考えた。
(エホバの証人とこころの病の問題 第12章 証人の統治:すべてに優先する組織)
ものみの塔協会が持つ価値基準は、きわめて単純で、その人が組織にとって有用かどうかということです。愛とか憐みは、主要な価値観ではなくって、その人が、組織の歯車として働けるかどうかということが、基準なのです。
だから、普段は「愛しています」といいますけれども、いざというときには、何の愛も示さず、示す基準は、組織にとって有用かどうかという基準だけです。
今回の地域大会でも「背教者の特徴のひとつは、宣教活動をしないこと」とうことが話されましたね。ものみの塔協会は、その人たちが今まで宣教してくれたとうことに関して何を考えているのでしょうか。
神は次のような方です。
「神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされないからです。
(ヘブライ 6:10)
神は示した愛に対して、それを忘れ去りはしません。「コップ一杯の水であっても、その報いはする」といわれる方です。しかし、ものみの塔協会の方針はこれとは正反対です。今まで働いてきたことはどうでもよく、今、組織にとって有用かどうかということが、判断基準です。組織という神は、まるで悪魔のような存在ですね。
組織は、人間に対して、取り換え可能な人間という見方をするので、とても怖いです。
エホバの証人の兄弟・姉妹たち、どうかだまされないでください。組織というのは、普段は自分をよいように語るけれども、いざというときには、何の助けもくれません。
実際に生活を助けてくれるのは、家族か、親戚か、本当に身近な友人です。組織にとっては、もう集会にも、宣教奉仕にもでることができなくなった人は、用済みなのです。だから、もうあまり、組織、組織というのは、やめるのがいいです。
べテルでの仕事にしろ、RBCの仕事にしろ、工場の機械や高所からの転落などによって、怪我や障害を負ったとしても、それに対してものみの塔協会は、何の保障もしませんし、労力をしぼりとっただけで、後は自己責任ということを覚えておいてください。
べテルでの工場作業やRBCでの建設作業は、危険が伴うということも覚えておいてください。そいうことをきちんと知らせないままに、ベテルやRBCに送り込むのは僕の良心が痛むので、お知らせしておきます。