バプテスマと宗教団体への帰属を切り離す - 改善案

 バプテスマと聞いてみなさんは何を思い浮かべますか。多くの人は「エホバの証人になる」ということをバプテスマを受けることと同一視していると思います。「バプテスマを受けること」=「エホバの証人になる」ということです。

 しかし、もう一度考え直してみてください。これには、どのような根拠がありますか。聖書には「バプテスマはひとつ」と書かれています。

主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つです。すべての者の神また父は一つであり,すべての上に,すべてを通し,すべての中におられるのです。
(エフェソフ 4:5-6)

 では、エホバの証人のためだけの特別なバプテスマがあるというのでしょうか。それとも、さまざまな種類があるのではなくてバプテスマはひとつなのでしょうか。

 宗教団体というのは一般的にいって、聖書のある言葉を、自分たちの組織や制度を正当化するように、その言葉を利用する傾向があります。つまり、聖書のひとつの言葉をちぎって、自らの制度にあうように変化させるのです。

 神の言葉が土台になるということとは、まったく反対のことをしていて、自分たちの組織や制度のために、神の言葉を変化させるということを行います。バプテスマもまさに、変質させられています。聖書が語るバプテスマではなくって、ものみの塔協会が語るバプテスマに変質させられてしまっています。

 聖書に書かれているバプテスマというのは、父であるヤハウェと子であるイエス・キリストに信仰を持った人たちが、早い時期に受けているというのが特徴です。

 ひとつの例として、エチオピアの宦官は、イエスについて知ったあと、すぐさまバプテスマを受けました。

宦官は答えてフィリポに言った,「お願いします,預言者はだれについてこう言っているのでしょうか。自分自身についてですか,それともだれかほかの人についてですか」。フィリポは口を開き,聖書のこのところから始めて,イエスについての良いたよりを彼に告げ知らせた。さて,彼らが道を進んで行くと,水のあるところに来た。すると宦官は言った,「ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか」。
(使途 8:34-36)

 つまり、バプテスマは組織への帰属意識とは何の関連性もなくって、その人個人が、父と子に信仰を持ったということを表すものだということです。それ以上の意味がないのです。

 フィリポがほどこしましたが、フィリポの所属する宗教団体に帰属したという意味もありません。パウロ、アポロがバプテスマをほどこしたとしても、それは、パウロ、アポロが所属する宗教団体に帰属するという意味もありません。「父はひとつ、キリストはひとつ、信仰はひとつ」だからです。

 僕が指摘するのは、バプテスマの意味が変質させられてしまっているというところです。これを、もう少し聖書の中で描かれているバプテスマの意味に近づけたいです。



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