神権的(テオクラティック theocratic)という用語を廃止する

 研究用ものみの塔でも、ときどき登場するのが、神権的(テオクラティック theocratic)という言葉です。「神権的な取り決めを支持しましょう」という形で、登場するのが、最近では一般的になっています。

神権的という言葉は人間の政治が由来

 このブログでも、たびたび指摘しているのですが、神権的という言葉には、神という言葉が入っていますれど、「神権的」という言葉は聖書由来ではないということです。由来は、人間の政治からです。

 たとえば、国家元首としての正当性を、神に求めて、それによって国の支配権を正当化するために、神権政治という概念が利用されたりしてきました。王権神授説という言葉を聞いたことがあると思いますけれど、あれの類似ですね。

 研究用ものみの塔で「神権的」という言葉がでてきたときは、100%聖書や神とは関係がないです。ですから、「神権的な取り決め」は「人間的な取り決め」と読み替えるのがいいと思います。

 人間的な取り決めですから、妄信する必要もありませんし、疑問に思ってもよいですし、いつでも吟味してみる価値があります。本当に、これは、エホバの証人の兄弟・姉妹にとってよいことだろうかと吟味してみることは大切だと思います。

 取り決めを盲目的に支持するということは、絶対にやってはいけないことだと思います。たとえば、「鞭で子供を叩く」という神権的な取り決めを思い出してください。これは、演壇から、巡回監督や長老から、はっきりと語ったことです。

 ものみの塔協会は「指示がいかに奇妙なものであったとしても、すぐに従う必要があります」といっています。けれども、兄弟・姉妹たち、どうか再び誤った方向には進んでいかないでください。鞭による残酷さ、自動への虐待を思い出してください。

 神権的な取り決めは、極めて異様ななものだったのです。

統治体の神権政治を認めなければ長老にはなれない

 研究用ものみの塔では次のような表現も見受けられます。「奉仕の僕や長老は神権的な取り決めに敬意を払います」という表現です。さらっと書いていますが、真意は何でしょうか。

 それは、統治体の神権政治を認めない人は、長老にはさせないという意味です。つまり、エホバの証人の世界で特権という階段を上っていくためには、神権政治を認める必要があるということです。エホバの証人は、特権という階段を上っていく過程で、特権という餌と引き換えに、神権政治を飲み込まされていきます。

 ですから、エホバの証人の社会では、特権の階段を昇っていくに従って、神やイエス、聖書からは遠ざかり、神権政治というのもが、心の中心を占めるようになっていきます。どんどん神からは離れていき、神の名を借りた人間の支配体系が、中心的になっていきます。

 これを批判するなとものみの塔協会は、研究用ものみの塔で書くのですから、腐敗していくのは、当然の帰結です。だから、長老より上は、すべて腐敗しています。うわべで語る言葉はきれいですけれど、長老より上は、すべて腐敗しています。これが、現在のエホバの証人の実態です。

 批判を許されない絶対的な権力は腐敗するのです。これを自覚しているという点においては、世の近代国家は、ものみの塔協会よりは、はるか勝っています。

神権的という用語と概念を廃止する

 改善のひとつは神権的という用語と概念を廃止することです。姉妹たちの傾向としては、これこれが神権的な取り決めだからといわれると、それを盲目的に信頼してしまう傾向があります。

 でも、きっと姉妹たちは、それがエホバやイエスと関係していると感じて、取り決めを支持しなくっちゃと思うんだと思います。でも、これは錯覚でして、神権的というのは、人間的な一時的な取り決めであって、エホバともイエスとも何の関係もないということです。

 ですからどうか「鞭で子供を叩く」という最悪な神権的な取り決めを、思い出ししてくださって、神権的な取り決めを盲目的に信頼するというのが、いかに危険な行為であるかということを自覚してください。

 そして、目標は、神権的という用語と概念を、ものみの塔協会には使わせないようにすることと、エホバの証人の社会から廃止することです。神の権威によって人間の政治を正当化する神権的なものに頼るのではなくって、本当の意味でエホバ神と主イエスのもとに帰りましょう。



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