いじめについて

 みなさんは、仲間と平和な関係を保ちたいですか。子供たちであれば、学校で、大人であれば、働いている場所で、もちろん会衆の中で、平和を保ちたいと多くの人が思うと思います。

 さて多くの人が平和を願っているといいながらも、どこをみても、いじめ、争い、差別、偏見、憎しみ、うらみ、ねたみがあります。これは、世の中だけといわずに、残念ながら会衆の中にもあります。

 敏感な子供たちは、それに気がついています。反対に鈍感な大人は、それに気づけていません。何か理不尽なことが起こっていたとしても、それを否定する傾向があります。

 暴力はいじめは、実際は隠れたところで行われます。いじめをする人は、隠すのが上手だし、いつでもいいわけができます。だから、先生の視点からは、単に友達どうしの遊びや関係にしか見えないことが多い。しかし、されている側としては、辛いものだ。

 会衆においても、いじめが行われていたとしても、それを見ないふりをして、平和な会衆なのだと思いこみたい兄弟・姉妹も多い。当人が悪いのだと。当人が悪い態度をとったから、そういう結果になっているのだと、心の中で思い込む。

 そして、自分自身の態度において、いじめを助長していたり、偏見・差別を助長していることに、自覚がない。やっぱり、人間は弱いので、自分の身の保身というのは、他人よりも大切なものだからだ。

 いくら口では、人のため、神のためといいつつも、自分がかわいい。それが、本音なのに、何か他の人や神に対して、犠牲的な行為を払っていると、いいわけする。神に対して、忠誠を誓っているといいわけをする。

 ただ目の前の兄弟・姉妹のことを無視して、自分の保身を図っているだけなのにね。自分の保身を図りたいということを無視して、正当化するからおかしなことになる。自分の身がかわいいということを、もっと自覚したほうがよいと思う。

 だからこそ、イエス・キリストは偉大でした。人が自分の身を一番愛することを知っておられました。そして、単にこういわれたのです。

あなたの隣人を自分自身のように[愛さねばならない]
(ルカ 10:27)

 「自分自身のように」というところがポイントですね。これは、神の公正の表れでもあります。「他人を自分より愛している」という「うそ」や「虚勢」はいらないのです。ただ「隣人を自分自身のように愛せれば」十分です。