落ちこぼれとみなすことはやめてほしい

 学校でも、職業でも、お給料でも、会衆の特権でも、そうだけれど、だれかとだれかを比較して、一方を落ちこぼれとみなすということがある。会衆の中には世はないのだと信じ込みたいかもしれないけれど、会衆の中には、世の差別よりもひどい差別があることもある。

 だから、エホバの証人が世から逃れれられているわけではなくて、エホバの証人も世の一員だということだ。自分の所属している宗教団体は清い、他のキリスト教や宗教は、不潔で醜いという価値観は、捨てたほうがよいんじゃないかと思う。

 また、エホバにこれだけ奉仕している自分は立派だ、あの人は、組織の方針とずれたことをしているから劣っているという、そういう見方はやめたほうがいいんじゃないかと思う。

 僕は、何度、あの人はふさわしくない人として指をさされてきたことか。それは、エホバの証人になる前の世の中でも、エホバの証人になった後でも、結局は同じったということ。エホバの証人の中においても、エホバの証人の外においても、ある種の組織的習慣に合致しているかどうかということが、その人への評価の基準だった。

 どうして人を傷つけることを行ったり、公正を排除してまで、ある種の習慣を維持しようとするのか。それが、疑問だ。ある種の習慣が悪いとは僕は言いません。それは、よいけれど、それ自体が、崇拝の対象となってしまって、人を傷つけたり、公正が侵されているのを実際に目にしているのに、それでも維持しようとする。これが、問題だ。

 「あなたは神を愛さねばならない。あなたは、自分自身のように隣人を愛さねばならない」

 イエスはこう言われたのに、自ら維持している慣習のために、最大のおきてを、破ってしまうのですか。

 ある会衆の人は「そんなことをしていたら兄弟は恋愛対象にされない」といいました。たくさんの兄弟・姉妹がいて、趣味・思考・好みのは千差万別なのに、組織の中での立ち振る舞いという一点に着目して、そのようにいうのです。

 会衆の中で、落ちこぼれとみなされた兄弟・姉妹は、恋愛対象としても、見放なされてしまうような雰囲気さえ会衆は作ってきました。立派な恋愛と立派でない恋愛、立派な過程をたどった結婚と、立派な過程をたどらない結婚。そんな区別を行って、兄弟・姉妹の、恋愛感情にとても悲しい思いをさせてきました。

 特定の人を落ちこぼれとみなす習慣をやめて、評価しあえる雰囲気を作っていかないといけないんじゃないかと思う。