無視や態度を変えることは、人の心を強く痛める

 無視や態度を変えることは、人の心を強く痛めます。強く痛めるというのは、心が痛いということです。深い深い傷になるということです。エホバの証人は、どんなときに態度を変えますか。いくつかの経験から考えます。

研究生に対しては非常にちやほやする

 エホバの証人の兄弟・姉妹は、研究生に対しては非常にちやほやします。誉めて、誉めて、誉めちぎります。これが、ひとつの雰囲気としてあります。特に、態度や振る舞いが、エホバの証人の会衆の雰囲気に、合わせていくならば、ちやほやは高まります。

 僕はこれは、やりすぎだと思っています。エホバの証人の兄弟・姉妹は、会衆の現実を知っているわけです。いろんな人間関係の問題があること、会衆のだれとだれが仲が悪いのか、知っているわけでしょう。それなのに、何か会衆が、すばらしいところみたいな、雰囲気を出して、誉めそやす。

 バプテスマを受けた後に、その人は、理想と現実のギャップに気がつきます。こういう決定をしてもらってはいけないと思います。研究生という理由だけで、集会でにこにこしていた兄弟・姉妹は、バプテスマ後は、少しづつ態度が変わっていきます。冷たくなっていきます。

 また研究が終わると、今までの交友関係も同時になくなります。

長老から削除された場合

 エホバの証人では、長老などの特権を持った地位から降ろされることを、削除されるといいます。なんという醜い言葉を使うんだろうと思います。

 ものみの塔協会は、ものみの塔紙の中では、長老に感謝を示すように、長老をちやほやするようにと教えています。つまり、これは義務的な感謝なわけですけれど、姉妹たちも、表情を作るのが上手なものですから、親切を示されている長老の側は、それに気がつきません。

 それで、長老という特権を削除された場合は、突如として、その人への親切がなくなってしまうわけです。これは、特権に対して親切を示しているのであって、人に対して親切を示しているわけではないのです。

 そのときに、初めて、示されていた愛は、ものみの塔協会が与える特権へ向けられたものであって、自分という人間に向けられていたものではないことを知ります。

 エホバの証人の社会では、開拓者や長老などの特権を持つ人を、誉めそやして、特権を持つ人に特に親切にするという慣習があります。これは、大きな問題です。イエスが教えている、分け隔てなく親切を示すという価値観や、立場やおかれた状況が難しい人に親切を示すという行為とは、まったく逆の行為だからです。

長老が、特定の兄弟・姉妹を危険視して無視するように言う

 日本支部あるいは巡回監督のブラックリストに乗せられた兄弟・姉妹は、危険視されるようになります。これは、背教者予備軍リストですね。時には、その兄弟・姉妹を、無視するような圧力をかけて、見せしめにしようとします。

 ある兄弟・姉妹に対して、会衆や長老は突如として態度を変えます。僕は、その状況があるあるというコメントや、似たような状況があるあるというコメントや、僕のブログのコメントで似たような状況を聞いたので、おそらく、実際にやられていることだと思います。

 また日本支部主導で、このようなことが行われているという情報も存在します。秘密裏に、このようなことが行われているのです。

 個人の尊厳や人権よりも組織の方針を守らせることが最高の目標ですからね。組織の方針を守らせるために、ものみの塔協会は、みせしめをも行います。

 神を信じる兄弟・姉妹の善意を踏みにじってくるのが、現在のものみの塔協会の姿です。