背教者とたびたび言われることについて

 僕は、このブログをやっていて、結構影では背教者と思われているんだなぁと思うことがある。実際に言われたこともあるし、影でいっていたのを人づてで聞くこともある。野球少年くんという男の子がいたのだけど、お父さんから、ぴゅうさんは、どうも危険人物扱いされたようだった。

 中学生くらいの女の子が、書き込んだことがあったけれど、お父さんはどうやら、僕のことを、ほぼ背教者といったようだった。背教的なブログといわれることもある。彼は背教していったといわれることもある。

 yahoo知恵袋では、僕のブログが紹介されたこともあるのだけれど、知らない人が「あの人はエホバの証人ではない」と書いてあった。エホバの証人だってば。

 まぁ、僕がいろいろと言われることはよいとしましょう。でもですね、こういうことを、仲間に対していってしまうと、「エホバの証人って、すぐに人を背教しているというふうにみるのね」と思われてしまいます。

 これって、伝道活動をする上ですごくマイナスなのではないでしょうか。人をすぐに否定する宗教に、人々が魅力を感じると思いますか。実際に言っていることと、やっていることがすごく違うじゃないかという印象を与えてしまいませんか。

 僕は匿名でブログをやっているから、いくら背教者といわれても、実質的な害は何もないです。けれども、この背教者の判断を、もし長老が行うのであれば、その長老は、背教者に対して排斥を行うことができます。これはとても、怖いことだし、排斥の恐れのために、長老に対して何も言うことができなければ、それは損失だと思います。

 「あいつは背教者だ」と簡単にいってしまう宗教に対して、人々の目は、差別的で、心の狭い宗教だという印象しかもたないでしょう。世に光を輝かせなさいといっている人が、そんな風な偏見の目をすぐにもってしまうならば、言っていることと、やっていることが違うと思われてしまいますよ。