エホバの証人の兄弟・姉妹が、これほどまでに組織にとらわれているとは思っていなかった

 「聖書は実際に何を教えていますか」で最近の人は勉強しますけれど、この本は、まったく組織というものを強調してはいない。というより、そもそも組織という概念がでてこない。だから、僕は、組織というのは、それほどどうでもいいものだと思っていた。

 でも、エホバの証人の社会を少しづつ知るようになると、建前の部分は聖書なのだけれど、本音の部分では、組織というものに強くとらわれていることに気がつく。昔の人は、そうとう組織というものを教え込まれたのだろうか。また、司会者によっては、昔の伝統を続けて、組織というものを、強調して語っているのかもしれない。

 僕は、人の気持ちというのが、すぐにわかってしまうので、嘘や隠し事をしていると、どんなに笑っていたとしても、平穏を装っているとしても、その雰囲気を感じ取ってしまう。100%の嘘や建前をできる人はいないので、ぼろがでたときに、その人が、どんな価値感を重んじて生活しているのかがわかってしまう。

 だから、公開講演では、エホバとか、イエスとかいってたとしても、それは頭で語っているだけで、ハートでは語っていないことに気がつく。神ではなくって、巡回監督にどうすればよく見られるだろうかということばかりを気にしてる。巡回監督の好みに合った服装、話し方、振る舞い、そんなことばかりを気にしてばかりいる。長老っていうのは、一部の天然の人を除いて全員がこんな感じだ。

 「神」と「ひとりひとりの人」を見て語ってくれるというのが、一番よいのに。巡回監督が監視人として働く公開講演は、とてもつまらない。

 奉仕の僕の兄弟にしても、自分の将来の特権を得るために、自分の立場が不利になるようなことに対しては、まったく積極的には動いてはくれない。意見を言うとしても、いつでも長老に悪く見られないようなことを意識して、そういう意見ばかりをいう。自分の将来の特権にとって、どれほど不利にならないか、そういうことばかりを考えている。

 姉妹たちは、姉妹たちで、兄弟というのは、奉仕の僕になって、公開講演をして、長老になってというのが、霊的進歩だと信じているし、それが、進むべき道だという。そのような出世街道が、聖書に書かれたクリスチャンの道と矛盾しているということを感じてはいない。

 「なぜパウロは、自分が持っていたたくさんの宗教的特権を捨てたのだろうか」と姉妹たちに、問うてみたい。その答えを考えることができたなら、現在のエホバの証人の特権制度を、パウロが肯定していないことはすぐにわかる。

 イエス・キリストへの信仰による義、これが永遠の命を意味しているので、これこそが、すべてのクリスチャンが平等に持つ最高の特権だったのです。すべてのクリスチャンが、神から公正に、また公平に与えられている、最高の特権。この最高度の優れた特権のために、パウロは自分に与えられた種々の宗教的特権を、クズのようなものだと結論した。

 ものみの塔協会は、イエスパウロも肯定しなかった、種々の宗教的特権を現代に復活させてしまっている。そして、アメとムチと呼ばれる政策を、会衆の中に持ち込んでしまっています。