ムラ社会の価値感を卒業しよう

 ムラ社会というのは、自分自身をムラという組織に同化させようとする。ムラ人は、自分と同じ行動様式をもたない人を、貶めたり排除しようとする。ひとりひとりの人ではなくって、ムラの伝統を守ろうという価値感に従って行動しようとする。この結果、ムラの価値感は守られるが、肝心の人間のほうが守られないという逆転現象が発生してしまう。

 これは、日本社会に見られることだし、エホバの証人社会においては、さらに顕著に見られる。日本社会の窮屈な部分、悪い部分が増長されてしまったような感じだ。

 僕自身は、エホバの証人社会を見てきて、自分自身を組織に強く同化させるのは、とても恐ろしいことだと感じています。僕たちひとりひとりには、さまざまな側面があります。たとえば、日本に生まれました。○○県○○市に生まれました。男性に生まれました。○○というサークルにはいっています。○○が好きです。神を信じています。イエス・キリストを信じています。

 たとえば、エホバの証人の社会というのは、たとえば「長老になるには、ひげはふさわしくない」といいます。ムラの伝統に、ひとりひとりを従わせようとして、それに従わなかった場合は、多くの場合は、嫌な言い方をしたり、無視という無言の暴力で、制裁を加えようとします。

 「ムラの伝統を乱す人は敵」という価値感を、エホバの証人社会は強く持っています。巡回監督と長老たちは、ムラの伝統を乱す人がいないかを常にチェックしており、その人を見つけたら危険人物扱いし、なんらかの方法で制裁を加えようとしてきます。これは、非常に気持ちの悪いことですし、不快なことです。

 ムラ社会の価値感を痛烈に批判した人は、僕たちの主イエス・キリストです。ムラ社会の伝統によって、神の思いが無価値になっていると、痛烈にパリサイ人を批判したのです。僕たちエホバの証人は、イエス・キリストの言葉を、もう少し尊重するのがよいと思います。

[イエス]は答えて言われた,「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。
(マタイ 15:3)

 どうしてムラの価値感を守ることを優先して「神と隣人を愛しなさい」という神のおきてを無駄にしてよいのでしょうか。自分たち人間の伝統のゆえに、神のおきてを踏み越えてよいのでしょうか。こんな自問をしてみてほしいです。これは、人間の伝統だろうか。それとも、神の思いだろうか。

 巡回監督がいったから正しいとか、長老がいったから正しいとか、そんな価値感を持つようになってしまうと、自分で考えるということをやめてしまうことになります。考えてみてください。「ひげをそることは、神の思いだろうか」。変なこじつけをせずに考えてみてください。