「主権の論争」の再考〜これは本当に聖書的か??

 「主権の論争」の再考〜これは本当に聖書的か??という話題についても書いてみてくださいとリクエストがあったので、僕の現在の考えを書いてみたいと思います。

 エホバの証人の社会では、主権の論争というテーマが、重要なポジションを占めています。簡単にいえば「神を選ぶか、神以外を選ぶか」ということです。

主権の論争とは、神を選ぶか、神以外を選ぶかということ

 このテーマは、聖書の全編を通して、出現するといっても過言ではないと僕は思います。ヨブ記だけではなくって、聖書全編を通して、問いかけられているテーマだと僕は思います。

 問題なのは、ものみの塔協会が、善と悪を決めてしまって、「これは神が是認している」「これはサタンの手口」といってしまうことだと僕は思います。神を選ぶか、神以外を選ぶかということについては、聖書を通して語られていることだと思います。

 問題なのは、たとえば輸血を選択したときに「あなたは神に対して忠節ではありません」とものみの塔協会が言ってしまうことです。排斥された人に話しかけたときに「あなたは神に対して忠実ではありません」といってしまうことです。僕は、いいたいです、あなたがたは、神ではないのに、神の思いを代弁したような気になっているのですかと。

 神に従うか、そうではないかということ自体は、聖書全体で投げかけられていることだと思います。

 たとえば、創世記には、神と蛇がでてきます。神は「約束を守る」つもりでいます。蛇は「うそつき」です。この対比に注目してください。「神を選ぶか、神以外を選ぶか」ということがテーマになっていますね。

 「見えない神」に従ったモーセと、「見える偶像である金の子牛」を造ったアロンを考えてみてください。ここでも、対比が語られています。

 「神の言葉」に従ったイスラエルの王と「エジプトなどの他国の軍事力」に頼ったイスラエルの王を考えてみてください。ここでも、神エホバか、そうではないものに従うかという対比が語られています。

 新約聖書においても同じテーマがあります。イエスも、「神」か「富」かという対比を語りました。パウロも、「神」か「偶像」かということを語りました。

 僕の実感としては「見えない神を愛し信じる」ということは、聖書全体を通して、ひとつのテーマになっているように感じます。