独立した良心という考え方

 人の思考は、よくも悪くも、自分が信じたいことを、耳に聞いたなら、それに流されていく傾向があります。また、たくさんの人が信じているとうわさされたことを、聞いたなら、それに流されていく傾向があります。

 僕の考えでは、これは孤立する危険に対しての防衛反応なのだと思います。自分の力はとても弱い、それで、権威に対して逆らったとしたら、もう平穏には生きていくことができないという不安です。そして、この不安を、支配者の側が、うまく利用するわけです。

 人は願ったことを行うことができないので、自分が善いとは思っていない人の側に立つということは、よくある光景ですね。そのようにして、自分が善いと思っている人を責める側に回らされてしまいます。悲しい光景です。

 僕は、あまり特定の人の考えに固着するような思考は、他の人を追い詰めることがあるので、できればやめてほしいと思っています。宗教指導者の考えに固着しすぎると、立場の弱い人を追い出すのに加担することになってしまいます。そして、それは現実に起こっていることです。

 聖書に書かれてることで、強調されているポイントは、ひとりひとりが、神の前に立つという考え方です。他の人の信仰が、あなたの信仰なのではなくって、あなたの信仰が、あなたの信仰です。

 そのようにして、一人ひとりが強く神の前に立っているとすれば、みんなで、ひとりの人を責めるという過ちに加担することはないと思います。かばってくれる人も当然でてくるでしょうし、仲裁に入ってくれる人もでてくるでしょうし、双方の言い分を聞いてくれる人もでてくるでしょう。亀裂に対して、対処する仕方が見つかると思います。

 人はひとりひとりが異なるように創造されているので、個性の違いや、それを表現する外面の違いを認め合うのがよいと思います。自分を基準にして、また自分の属する宗教組織を基準にして、特定の人を裁くなら、その人に重い傷を負わせることになるのではないでしょうか。

 イエス・キリストへの信仰による一致は、あらゆる考えを一致させることとは違いますし、まして外面による画一性の一致ではないのです。