パウロはクリスチャンの中のひとり

 聖書の中でパウロが書いた手紙は多いですけれど、パウロは、クリスチャンの中のひとりです。現在聖典として受け入れられている66冊が決められた基準は、内容の調和と使徒性であったと思われます。

 パウロ以後も聖なる書物というものは書かれていましたが、後世の影響を排除するために、「キリスト理解において調和し、かつ、使徒あるいはキリストの直弟子が記したと考えられるもの」以外が、削られました。

 現代的な位置から見れば、新約聖書の大半は、パウロの書物が占めるので、パウロが抱いたり語ったりした、価値基準が強く主張される傾向があります。

 けれども、当のパウロには、キリストを宣べ伝えるクリスチャンのうちのひとりであるということの自覚が強くあります。いくつかのパウロの言葉を見てみましょう。

あなた方がそれぞれ,「わたしはパウロに属する」,「いや,わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」と言い合っていること,そのことをわたしは言うのです。キリストが分裂してしまっています。パウロがあなた方のために杭につけられたとでもいうのですか。それとも,あなた方はパウロの名においてバプテスマを受けたのですか。
(コリント第一 1:13)

 パウロは、自分に固くつく信者の獲得競争には興味がないのです。キリストへと導きたいと思っています。

 また他のクリスチャンの伝道活動を肯定しています。

確かに,そねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますが,ほかの者たちは善意によってそうしています
(フィリピ 1:15)

 他のクリスチャンが行っている、善意で行われているキリストを宣べ伝えることを肯定しています。自分がクリスチャンの中のひとりであるという自覚があります。

 「まだキリストを知らない人のところに行こう。」とパウロは考えています。他のクリスチャンへの尊重があります。

こうして,実に,キリストの名がすでに唱えられている所では良いたよりを宣明しないことを自分の目標としたのです。それは,ほかの人の土台の上に建てることがないようにするためです。
(ローマ 15:20)

 現代的キリスト教は、パウロの言葉に重きをおく傾向があると僕は思っていまして、これは、聖書に残されたという事実と強い関連があると思っています。パウロ本人は、自分をクリスチャンの中のひとりだと考えています。

 パウロに重きをおく現代的キリスト教と、パウロが自覚してたこととの間には乖離があるのです。パウロ自身は、自分の言葉が権威の言葉として使われるようになるということを想定していません。パウロがいつでも思いに抱いていたのは、神とキリストでした。

 パウロ自身は、諸国民に宣教するという役目を与えられたとはいえ、自分が、クリスチャンの中の一人という自覚は強くあったと思われます。