救いは今なのか未来なのかという対立はあまり意味がないと思える
エホバの証人とカトリック教会の間で、対立になりやすいのは、救いは今なのか、未来なのかということです。エホバの証人は、救いは未来なんだといいますし、カトリックの方は、もうすでに救われているんだといいます。
でも僕は、そもそもこのことを対立で語ることが自体が変なのだと考えています。今救われていると感じることは不自然なことではありませんし、未来に救いがあるのだと考えることも不自然ではないと思います。
信仰によって救われるということの意味
パウロは、信仰とは救いの権利証のようなものだといいます。
信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。
(ヘブライ 11:1)
具体例で考えてみましょう。お金をまだもらっていませんが、お金を受け取ることができる証書があったとしましょう。
お金は手元にはありませんが、お金を受け取ることができる証書は手元にあります。期日が訪れたときにこれを提示すれば、お金をもらうことができます。
この状態は、権利があるという意味では、お金をすでにもらっている状態といえると思います。また、期日がくればお金をもらえると考えている状態でもあります。
ですから、信仰とは救いの権利書であるという考え方をすれば、救いは今なのか未来なのかという対立はあまり意味がなくなります。
イエスの弟子たちは、すでに救われているようにも語っていますし、またこれから救われるようにも語っています。どちらの語り方もしているように思います。
だから、救いは今なのか未来なのかということで、バチバチと対立しあう必要はないと思うのです。