奴隷なのか、子なのか

 奴隷として仕えなさいと書かれている場合もあれば、あなたがたは神の子ですと書かれているところもあります。キリストは天で生活していたのに、地におりて死に至るまで奴隷のように仕えました。バプテスマのときには、あなたはわたしの子、あなたを是認したという声がありました。

 パウロの議論を見てみましょう。

では,わたしは言いますが,相続人がみどりごである間は,たとえすべての物の主ではあっても,奴隷と少しも異なることなく,その父があらかじめ定めた日までは,管理人や家令たちのもとにあります。同じようにわたしたちも,みどりごであった時には,世に属する基礎的な事柄によって奴隷にされていました。しかし,時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,その[み子]は女から出て律法のもとに置かれ,こうして彼が律法のもとにある者たちを買い取って釈放し,わたしたちが養子とされることになったのです
では,あなた方は子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。ですから,もはや奴隷ではなくて子です。

 みどりごというのは赤ちゃんのことなのですが、赤ちゃんでいるうちは、何ら奴隷と変わりがありません。イエスを知るまでは、世の事柄に対して拘束されていました。けれども、イエスがきて、イエスを知った後は、神は、イエス・キリストの霊を送ってくださり、そのことによって「父よ」ということができます。それで、もはや奴隷ではなく、子なのです。

 知らないうちは、子であったとしても、管理されるものであるので、奴隷と変わるところがないのですが、知ったのであれば、家の子としての資格を備えるということをパウロは議論しています。

 神の子としての身分を備えていたのは、最初はアダムでした。

[カイナンは]エノシュの[子],
[エノシュは]セツの[子],
[セツは]アダムの[子],
[アダムは]神の[子]であった。
(ルカ 3:38)

 この観点はとても大切です。神の子孫たれとされえいるのは、実は人間だからです。たとえば、日本の伝承においては、天皇は神の子孫とされています。ここで、権威をもちうる観点は、天皇だけが神の子であるという視点です。

 しかしこの権威付けは、聖書の観点からは間違っており、アダムが神の子孫、つまりすべての人間が神の子なのです。

 神の思いは、人が人を従わせるということにあるのではなく、人は神に従いなさい、人は地の産物と動物たちを従わせなさいというところにあります。