神の名に関する考察

 「なんにでもなれる」ということは「なにものでもない」という意味です。「形を持たない」から「何の形にでもなれる」ということです。神という言葉は、何かを指しているように見えて、実際は何も指してはいません。

 神への服従は、神以外の者に対する不服従を意味します。見えないものに対する服従は、見えるものに対する自由を意味しています。

 神の名前の論争において「神は唯一なのだから、名前がないはずだし、必要がない」という意見が言われることがあります。また反対方向からは、「聖書には神の名前が書かれているのだから、使うべきだ」という意見がでてきます。

 これは、対立として語られるのですが、そもそも神の名前の意味を考えたときに、そもそも対立などしていないのではないでしょうか。

 ヤハウェの名前の意味はなんでしょうか。ヘブライ語の訳し方によって、いくつかの意味が考えられますが、僕は「なんにでもなる」という意味と考えます。なんにでもなれるからこそ、何でも実現できるのです。

 このように解釈すれば、ヤハウェという名前は、何かを指し示しているわけではありません。何かを指し示さないということを意味する名前なのです。

 イエスにとっての表象は父でしたし、ダビデは砦や鳥の翼や避けどころとして表象しています。

 ヤハウェやエホバを使うべきかどうかという論争は、どちらでもよいと僕は考えます。大切なのは、表面上のことではなくって、中身だと思います。ただし、ヘブライ語で書かれた聖書では、神がヤハウェという名前で呼ばれていたという事実は、知らせるべきだと思います。