記憶に残すということ

 聖書を読むときにある観点から内容をとらえてみるという読み方をすると、聖書を読む幅が広がると思います。イエス・キリストが、話したり行動したりするときは、おおよそそれは、聖書に描かれた行為と関連があることが非常に多いです。

 イエス・キリストを際立たせるあまりに、イエスを崇拝しそうになっている感じが広くありますが、イエス自身が思い描いていた、頭の中の風景を想像できるようになると、聖書はいっそう味わい深くなります。イエスは、それほど、聖書に書かれた出来事を意識しているからです。

 ではクイズです。次の言葉を述べたときに、イエスはいったい何を思い浮かべていたでしょうか。

「これは,あなた方のために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい
(ルカ 22:19)

 さらっと読んでしまうと何の変哲もない言葉です。けれども、これは聖書と非常に深い関連があります。さてなんでしょうか。

 次の聖句を読んでみてください。

「あなた方がエジプトから,奴隷の家から出たこの日を覚えておくように。エホバはみ手の力によってあなた方をここから携え出されたからである。(中略) そして,これはあなたにとって手の上のしるし,目の間の記念とならなければならない。(中略)それであなたはこの法令を年々その定めの時に守らなければならない
(出エジプト記 13:3-10)

 イエスは、この言葉を利用しているのです。

 イエスは、イスラエルの子らが、エジプトで奴隷状態となっていたときに、エホバがそこから救い出されたことを思い浮かべています。ですからそれになぞらえて、ご自分を過ぎ越しの犠牲としてささげて、それを記念にして忘れず、行い続けなさいといっています。

 聖書を読むときには、内的関係をきっちりと把握して読むと、後世の登場人物がどんなことを考えて行動していたのかということを、想像しやすくなります。すると、聖書全体の意味も把握しやすくなります。部分部分の解釈にさえぎられることなく、全体像を捕らえやすくなります。