一致する - イエス・キリストにおいて

 日本支部の奉仕委員会、巡回監督、長老は、かなり強く一致を強調します。一致という価値を高めて、それが圧力とまでなるくらいになってしまっています。

 巡回監督や長老が求める一致は、外面の一致です。また、方法による一致です。たとえば、姉妹が集会にスカートをはいてこなかったら、それを一致を乱しているというのです。ふさわしくない、他人をつまづかせているというのです。

 巡回監督も長老も、もう少し考えてくれたらと思います。スカートをはいてこないことが、平和を乱しているというような意味不明なことをいうのはやめてもらいたい。会衆の姉妹たちも、研究において、集会にスカートをはいてくることを強制させるようなことはやめてもらいたい。

 組織に対する従順を示しなさいというようなことをいって、スカートを強制するようなことは、やめていただきたい。それを強制することに、いったい何の価値があるのですか。

 外面による一致は、世が求めることなのであって、神が求めることなのではありません。ものみの塔協会という世の一部が求めるものであって、神が求めることなのではありません。

 イエスは、パリサイ人が、外面的な事柄を重要視しているということについて、警告していました。外面的なうわべでばかり裁くことを戒めていました。

うわべを見て裁くのをやめ,義にかなった裁きで裁きなさい
(ヨハネ 7:24)

 だれの容姿が優れているとか、だれの服装がよいとか、そのようなことで、歩んでいくことは、それほど重要なことではなくって、内面によって歩んでいくことのほうが重要です。

 また過度に服装に気を使う必要もありません。普通でいいのです。もし他人の人の服装に対して、いつでも裁こうという視線を持っているならば、平行を失っていると思います。

そして,あなた方の飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身に着けたり,外衣を着たりする外面のものであってはなりません。むしろ,もの静かで温和な霊という朽ちない[装い]をした,心の中の秘められた人を[飾り]としなさい。
(ペテロ第一 3:3-4)

 容姿やスーツやスカートが、重要な飾りではないのです。外面の一致が飾りなのではなくて、内面が飾りです。

 外面や方法による一致ではなくって、神が求めておられることは、イエス・キリストによる一致です。イエス・キリストによる一致は、外面の一致や方法の一致と呼ばれる世が提供する一致とは、まったく反対側にあるのです。このことが、理解されていません。

さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい。というのは,わたしの兄弟たち,あなた方について,クロエの[家の]者たちからわたしに打ち明けられたのですが,あなた方の間には争論があるとのことです。あなた方がそれぞれ,「わたしはパウロに属する」,「いや,わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」と言い合っていること,そのことをわたしは言うのです。キリストが分裂してしまっています
(コリント第一 1:10-13)

 そうです、「わたしはローマ法王に」、「わたしはジョセフ・スミスに」、「わたしはエレン・G・ホワイトに」、「わたしは正統派に」、「わたしは忠実で思慮深い奴隷に」ということで、キリストが分裂してしまっています。

 組織を超えたところで、キリストにおいて一致する、それが望まれていることなのではないでしょうか。また党派争いばかりで、対話がないがしろにされている気がしてなりません。