イエス・キリストを神として示すのはよくないと思う
プロテスタンやカトリックの方にいいたいことは、教会にいったときに、イエス・キリストを神として示すのはよくないんじゃないかということです。そのせいで、多くの一般の人は、キリスト教というのは、イエス・キリストを神とする宗教だと勘違いしてしまっています。
これは比ゆとして語らせてもらえば、天皇陛下を神として示しているようなものだと思います。国民は、天皇を神の地位にまで高めましたが、天皇とは神に対する関係で祭司です。
天皇は、自分を祭司として、神を見るべきなのに、国民は、天皇を神として祭ろうとしました。神ではないものを、現人神として、神として祭ろうとしたのです。イエス・キリストを神として祭ろうとするのも、これと同じような気がします。
それで、イエス・キリストを、神としてまず第一に示すのは、不誠実だと僕は感じています。なぜなら、イエス・キリストは、いつでも父との関係で、仲介者や大祭司として語られているからです。
それゆえ,わたしたちには,もろもろの天を通られた偉大な大祭司,神の子イエスがおられるのですから,[この方]についての告白を堅く守りましょう。
(ヘブライ 4:14)
イエスが、父との関係で、大祭司であり、仲介者であるということを理解しておかないと、イエスの役割が見えなくなってしまいます。イエス・キリストは、神と人間との間の道として、存在しておられるというイメージがないと、聖書の理解は著しく困難になります。
父と子を並列に並べるという考え方は、どう考えてもおかしな考え方だと思います。それを強調してしまえば、父とイエスとの関係が見えなくなるし、仲介者や大祭司であるという関係が見えなくなります。
また、父が、イエス・キリストを神の子として迎え入れるのと同じように、人間に対しても、神の子として受け入れるという、関係も見えなくなります。
父
イエス(人の子、神の子) - 人間(人の子、神の子)
イエスを神としてあがめてしまったら、上記のような関係が見えなくなるのです。父とイエスは、明確に異なるのであり、「同じだが違う」というレトリックは、聖書の理解を無駄に難しくしているだけだと思います。