イエスを地に導き入れる(ヘブライ人の手紙から論証)

 一世紀のキリストの弟子たちは、何が起こるかについて、いったいどのように考えていたのでしょうか。今回は、ヘブライ人の手紙の著者が何を思っていたのかを少し見てみます。

 一世紀のクリスチャンは、キリストが再び現れること、地上に到来してとどまることに思いを止めていました。準備ができたイエス・キリストを、地に導きいれるつもりだったのです。

しかし、初子を人の住む地に導き入れる際にはこう言われるのです。
(ヘブライ 1:6)

 ものみの塔協会は、見えない到来という表現を使って、イエス・キリストが目に見えない形で到来すると教えています。けれども、聖書では、キリストが、現れることを書いています。現れるということの意味は、目に見えるという意味です。

 そして、天での幸福な生活ではなくって、ヘブライ人の著者は、新しい地での生活を期待しています。

来たるべき、人の住む地、すなわちわたしたちが話しているものですが、
(ヘブライ 2:5)

 ヘブライ人への手紙の筆者は、神の創造の七日目の安息日について思い描いています。

それゆえわたしたちは、その休みに入るために力を尽くし、だれも同じような不従順に陥ることがないようにしましょう。
(ヘブライ 4:11)

 創造の七日目の神の休みの日は、人間の罪のために汚されてしまいましたが、神は再び、安息の休みに入らせるという約束を、イスラエルと結びました。しかし、イスラエルは不従順に陥ったので、その約束は、イスラエルに対しては、果たされず、神の民のために残されています。

 ヘブライ人への手紙の筆者は、イエスが、二度目に現れるということを思い描いています。

そして、彼が二度目に現れるのは罪のことを離れてであり、それは、[自分の]救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。
(ヘブライ 9:28)

 二度目と言っているのだから、一度目に現れたときと同じようにということを意味していると思います。つまり、イエスは、もう一度、地に姿を現すということをイメージしていると思います。

 ヘブライ人の手紙の著者は、王国を受けることについても意識しています。

それゆえ、わたしたちは、揺り動かされることのない王国を受けることになっているのですから、
(ヘブライ 12:28)

 来るべき都市を求めているとも書かれています。

わたしたちはここに、永続する都市を持っておらず、来たるべきものを切に求めているのです。
(ヘブライ 13:14)

 全体としてまとめてみると、ヘブライ人の著者は、イエスが到来すること、休みの日に入ること、王国を受けること、を待ち望んでいます。

 僕は、何回か書いているのですが、人が天に復活するという記述は、聖書の中に、一箇所たりとも存在しません。人が天に復活するという考え方は、つぎはぎの解釈論なのです。