排斥された家族と接すると特権を削除すると恐喝する巡回監督

 エホバの証人の排斥制度はひどいものです。この制度がある限りは、僕は、バプテスマはまったく薦めようとは思いません。

 表向きは、排斥がそれほど悪くないような印象を与えるために、公式サイトには、「宗教的な結びつきは変わりますが,家族としてのきずなは変わりません。」(エホバの証人ではなくなった人を避けますか)と書かれています。

 けれども、エホバの証人内部で行われえていることは、これとはまったく反対のことです。

特権を削除すると恐喝する日本支部と巡回監督

 普段の集会では、あまり語られないのですが、開拓者の集まりでは、巡回監督は、開拓者に対して「排斥された家族と接するようなことがあれば、特権がなくなると思いなさい」といって、恐喝に近いようなことを行っています。

 長老、奉仕の僕、開拓者という特権をえさにして、会衆の成員たちを、脅しているのです。下品で、最低な行為です。

 もちろんこれは、巡回監督がいいたいことなのではなくって、ものみの塔協会日本支部が、巡回監督に「排斥された人と接した場合は特権を失うことになる」と無理やり言わせているのです。

 ベテルの外観はきれいですが、ベテルにいる奉仕委員会の心の内面は、下品で、うす汚れています。

 「宗教的な結びつきは変わりますが,家族としてのきずなは変わりません。」などという話は、まったくなく、ただ恐喝に近いことが行われています。

特権を削除するぞ

 「排斥された人と接すると特権を削除するぞ、削除するぞ、削除するぞ」というのが、ものみの塔協会日本支部と巡回監督のやり方です。

 そこには、排斥された人の気持ちや心は、どこにもありません。排斥された人と家族との関係を考えることもありません。排斥が冤罪だった場合は、どれほど苦しいことだろうという感覚もありません。公正は忘れられています。

 クリスチャン家族としての好ましい関係はなく、ただ厳しい切捨ての現実があるだけです。

 恐喝、切捨て、これは、いったい、クリスチャンと呼ばれたいと思っている人が行うことなのでしょうか。ニコニコしながら、恐喝を行う、巡回監督には、僕は、狂気を覚えます。

 エホバの証人は、排斥制度をなくそうとする方向に向かうべきではないかと思います。そうしなければ、ジリ貧が続くだけで、未来はないと思います。