義なる神の世を望むことの意義

 たくさんの誤解があるように思う。義なる神の世を望むということを、否定する必要はないと思う。たくさんのことをごちゃ混ぜにして考えているのではないだろうかと思う。

 ものみの塔協会は、待つという言葉の意味を、統治体や長老への責任を追及させないための言葉として、神の言葉を利用しています。一方では、神を待ちなさいといって、自分たちの責任を追及させないのに、一方では、排斥をして、若者の過ちに対して、待つことができません。

 それゆえに、待ち望むということの価値が、ものみの塔協会の神の言葉の扱い方によって、台無しにされています。待ち望むということの価値は、否定されるべきものではないと思います。

 「急がば回れ」と日本のことわざはいいます。急がせることだけが価値であるわけではないでしょう。多くの人が祈り、語るなら、そこには力が宿ります。多くの人が、神に求めるならば、神は省みてくださり、状況を動かしてくださいます。

 命を愛さないと公言している人でさえも、命に対して損害をもたらすことが行われたり、状況が放置されたりしているならば、怒りの気持ちがわいてきます。

 自分の足が骨折しているのに、それを打ち叩いて、使えなくしようとする人はいません。実際のところ、心は、体や命を大切にしているのです。

 そして、命を望まないという人であっても、よい命を望んでいます。それは、たとえば、親からムチで打ち叩かれることがなかったような、命です。

 どうしてよいものを望んでいないのに、ブログで一生懸命書くことができるんでしょうか。その動機は、よい生き方を望んでいるということなのではないでしょうか。

 生きることに関して何の関心もなければ、口を開く必要もないのではないでしょうか。

 それゆえに、よい命を待ち望むことは、なんら悪いことではないのです。

しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります
(ペテロ第二 3:13)

 新しい地、それは神の約束によるものなのです。それは、遅れることのない神の確かに実現される約束なのです。