形だけの断食をエホバは批判なさる

 「憐れみのない犠牲」「心のない形だけの行為」そのような事柄に、エホバは飽き飽きしておられました。実際、断食も、他の人にみせるため、争いのため、自分の声を高く上げるためといったような、形だけの行為として実行されていたようです。

 また、地の人たちは、苦しみが課せられていて、そこからの解放はありませんでした。

実際,あなた方は言い争いや闘いのために,邪悪のこぶしで打つために断食をするのであった。あなた方は自分の声を高みに聞こえさせる日のように断食を行ないつづけなかったか。わたしの選ぶ断食がこのように,すなわち地の人がその魂を苦しめる日のようになってよいだろうか。
(イザヤ 58:4-5)

 しかし、このようなことは、わたしの選ぶ断食ではないとエホバは言われます。断食の日は、自由をもたらす解放の日だと、貧しい人たちに食料を分け与える日だと、衣類のない人の裸を覆い隠す日だと、言われます。

「これがわたしの選ぶ断食ではないか。邪悪のかせを解き,くびき棒の縛りひもを解き,打ちひしがれた者たちを自由の身にして送り出すこと,また,あなた方がすべてのくびき棒を断ち切ることではないか。それは,あなたのパンを飢えた者に分け与えること,また,苦しんでいる,家のない者たちを[自分の]家に入れることではないか。裸でいる者を見るなら,あなたはその者を覆わなければならないということ,自分の肉身から自分を隠すべきではないということではないか。
(イザヤ 58:6-7)

 イエスは「断食をしているときには,偽善者たちのように悲しげな顔をするのをやめなさい。」といいましたけれど、脳裏には、このイザヤ書の言葉があったと思います。

 イエスが、突然に自らの価値感で思想を宣べ伝えたと考えておられる方もいらっしゃるかもしれませんけれど、イエスの言葉の多くは、聖書(律法と預言者たち)の言葉に根ざしています。イエスは、神の言葉を大切にしていました。