会衆の高齢化の問題を考えよう

 日本全体も高齢化ですけれど、日本の会衆は、それにもまして高齢化社会になってしまいました。結婚することや、子供を作ることを、宗教指導者たちが抑圧してきたので、さらに追い討ちをかける結果となってしまっています。

 どんな問題が生じているでしょう。

集会へ行くことが困難になる

 高齢の姉妹たちは、体の不調のために、集会へ行くことがだんだんと困難になっていくと思います。また集会を行う場所は、家から近いとはいえません。

 送迎しあっていますが、これも大きな負担になっています。若い人たちは少ないので、もう少しで、老老介護という段階に至るのではないかと思います。

 また兄弟・姉妹たちが、施設などに入ってしまったり、集会にこなくなってしまえば、それは、もうそれっきりです。集会場所に集まることが命という慣行が、大きな害悪になってきてしまっています。

集まる場所も人数もどこでもよい

 ここで、発想の転換が必要だと思います。別に、週に2回、集会場所で80人集まる必要はないのです。この集まり方は、宗教指導者にとっては、都合のよいものですが、実際に、足を運ぶ人にとっては、それほど便利とはいえません。

 負担が大きい、特に、高齢化社会では、特に負担が大きい。だからもっと、個人個人の関係を、結び合わせるのがよいと僕は考えます。

 たくさんで集まる回数を減らして、2,3人で集まる回数を増やすのです。これなら、家にお邪魔して、お話を楽しむこともできます。足の悪い兄弟・姉妹であれば、集会につれてくるのではなくって、こちらから遊びに行くのが、親切かと思います。

 集会所での集会に出席することが命という固定的な観念を和らげて、もっと、クリスチャンどうしの交流をしましょうよ。ひとつの場所にたくさんの人を集めるというのは、宗教指導者にとっては、都合がよいですが、クリスチャンの自然な交流を妨げていると思います。

 「集まりあうことをやめたりせず」というのは、「たくさんの人数を集めた集会所での集まりに絶対に出席する」ということをまったく意味してはいません。そのような義務的な脅迫観念ではなくって、人と交流するということの楽しみや喜びをもっと含んでいるんです。

 集会に出席しなければ、責めるという悪い習慣を続けている宗教指導者たちは、もう少し考え直してほしいものです。

自然な人とのふれあいの喜びを感じよう

 自然な人とのふれあいの感情が失われてしまって「あなたは集会に出席しなければならない」という固定観念に、取り付かれてしまっている兄弟・姉妹は多いと思います。そして、他の人を責めがちですね。そんな義務的な人間関係の何が楽しいんでしょうか。

 もっと基本的なところに立ち返って、自然な人とのふれあいの喜びを感じたほうがいいと思います。それは、道で出会って、会話をしたり、喜びを示すことでだってできるんですよ。