見えないものは永遠

 ちょっと組織批判が続いてしまったので、心穏やかになるために、また戻ります。

 結婚に関してこんな言葉を聞いたことがありませんか。「愛はいつまで続くかわからないけれど、相手の年収が高ければ安心」と。愛は目に見えませんね。愛は心であって、気持ちだからです。お金は目に見えます。

 人は、見えるものに過度に心を奪われがちです。形のある見えるものが、自分自身を救ってくれると考えがちです。お金はあれば、あるほどよいという考え方が浸透しています。

 しかし、違うのです。これは、錯覚であって、実際は反対です。パウロはこう語ります。

同時にわたしたちは,見えるものではなく,見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです。
(コリント第二 4:18)

 見えないものを信じることには不安が伴うと思います。それは、見えないので、不安でたまりません。でも僕たちは、神がおられ、神の心を知っています。神は目には見えませんが、その心をよく知っています。そして、信頼し信じることができています。

 主イエスはいいました。目に見えるもの、すなわち富に関して「富んだ人が神の王国に入るのはなんと難しいことなのでしょうか」。そして見えないもの、すなわち神に関して「神の義と王国を第一に求めるように」といいました。

 「天の鳥たちを見なさい。神は鳥たちを養っています。人は、鳥よりも立派ではありませんか。それゆえ、生活のことで思い煩ってはなりません。」

 多くの不安は、実際は宣伝によって、作られています。多くの不安はあおられることによって作られます。イエスは、人々が過度に不安に陥って、さらにひどい感情に陥っていることを見て取っていました。それで、多くの不安を抱える必要はないといったのです。

 そして「義人は信仰によって生きる」とあります。命を与えてくれるのは信仰なのです。信仰のゆえに、彼は義とみなされた。それゆえ、命を得て、生きるのです。「見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠」なのです。