辛抱強さ - 子供たちにトラウマをもたらしてきたもの

 辛抱強くあること。それは、霊の実のひとつとしてパウロが語ったものです。

一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。
(ガラテア 5:22-23)

 パウロは、よく忍耐について語りますけれど、それは、なぜかといえば、もともとイエスが語っているからです。

しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。
(マタイ 10:22)

 パウロは、語るときに、キリストの言動をいつも、気に留めています。そのうえで、パウロの熱心さは、義に過ぎると感じるところもあります。けれども、パウロはキリストではなく、人間であるクリスチャンのひとりなのです。

 もし間違いがあるとすれば、ものみの塔協会が、パウロのような生き方を最善として、エホバの証人全体に模範として示そうとすることです。パウロに罪があるのではなくって、パウロのような生き方を崇敬の対象とさせようとするものみの塔協会に、罪があります。

 ものみの塔協会は、辛抱強くあるようにといってきました。けれども、それは、イエスが「終わりまで耐え忍んだ人が救われる」といった内容と、まったくかけ離れています。

 ものみの塔協会が、言いたいことは、こういうことです。

わたしたちの方法が、いかに間違っていても、辛抱強く受け入れなさい。私たちが、偽りの教理を語っていても、現在の真実として、辛抱強く受け入れなさい。鞭で打ち叩かれても、辛抱強く受け入れなさい。奇妙で異例な指示が出ても、輸血拒否で死んでも、排斥によって村八分にされても、辛抱強く受け入れなさい。それによって、エホバへの忠節を表していることになります。

 子供たちは、このような事柄に、親を通して苦しんできました。ものみの塔協会は、親に自分たちの言葉を語らせ、子供たちが、どんな場合でも親に辛抱強くあるようにと教えてきました。それは結局のところ、親に対する敬意を育てるものではなく、ものみの塔協会への服従を求めるものでした。

 表面的には聖書の言葉を使っているので光のように見えますが、真実の内容は、ものみの塔協会への服従です。だから、子供たちは、親への自然な敬意が育たずに、親は、服従を求めるものになってしまいました。

 そして、エホバ神は、親の姿を通して、抑圧を与える神として、子供たちに認識されてしまいました。ものみの塔協会自身が、神のみ名を汚してきたのです。

 子供たちの大半にとって、神が抑圧の神としてイメージされていることが、残念でなりません。