非開拓奉仕のすすめ

 巡回監督は、とにもかくにも開拓奉仕が最善の生き方で、素晴らしいもののように語り、開拓奉仕をすることを執拗に勧めます。もちろんこれは、ものみの塔協会の政策を、巡回監督に推し進めさせることが意図されているだけであって、開拓奉仕が素晴らしいとか、最善の生き方というのは、聖書のどこにも書いてありません。

 兄弟・姉妹たちは、ものみの塔協会がばらまいた、開拓奉仕は素晴らしいという感情に熱狂し、陶酔しています。これは、僕には、曲がったことのように思えます。

 そこで、僕は、非開拓奉仕をすすめてみたいと思います。

成果が上がっていない

 開拓奉仕をしている兄弟・姉妹の数や時間と比較して、新しくエホバの証人になる人の数はものすごく少ないです。つまり、不必要に多大な労力が、宣教奉仕の時間に費やされていることになります。どうして人々は耳を傾けてくれないのでしょうか。

 それは、はっきりいってしまうと、エホバの証人の、熱狂的でおかしな心情に共感できないためです。排斥、輸血拒否、組織、忠実で思慮深い奴隷。いくら宣教に時間を費やしたとしても、これらのおかしさに、途中で気づいてしまうために、聞く人は、距離を置こうとします。

 つまり、本当に、良いたよりを聞いてほしいのであれば、しなければならないことは開拓奉仕ではなくって、ものみの塔協会の洗濯です。汚れきって腐敗したものみの塔協会を、きれいに洗濯することが、必要不可欠なことです。

 開拓奉仕よりも、現状のものみの塔協会にノーを突きつける活動、こちらに時間を割くのが良いと思います。

行きはよいよい、帰りは怖い

 開拓奉仕の怖さは、「行きはよいよい、帰りは怖い」ところです。一度開拓者になってしまうと、特権を手放す怖さから、開拓奉仕を自力でやめることが、できなくなります。開拓奉仕を、自分の力でやめることができるのは、精神力が強い、ごく一部の兄弟・姉妹たちに限られると思います。

 精神的に鬱になったり、体がかなり不調になってきてから、限界が来て、開拓奉仕を降りる。ほとんどの開拓者は、そういう状態に追い込まれてしまっています。とにかく、一度開拓者になってしまったら、自力で降りることはほとんどできません。

 開拓奉仕とは、そういう恐ろしい状況に身をおくことです。一度開拓奉仕をしてしまったら、そこから逃れることは、非常に難しい。長老にしろ、奉仕の僕にしろ、開拓奉仕にしろ、特権を得るということは、とても怖いことです。もう自分の力では、その状態から逃れることができないのですから。

 集団的な圧力や空気は、非常に厳しいです。もし開拓奉仕を目指している方がいるなら、それをやめて、いかなる特権からも離れている生き方をお勧めします。

開拓者の中でしか通用しない狭い価値観に飲み込まれる

 開拓者の精神としては、ストイックである自分たちに酔いしれて喜ぶという、奇妙な価値観に飲み込まれてしまいます。「時間を使って開拓奉仕をしているわたしたちって、献身的で、自己犠牲的よね。素晴らしい生き方よね。」そういう価値観に、飲み込まれてしまいます。

 組織に否定的な人に対する目つきは鋭く怖くなりますし、やわらかく広くて優しい感情が、どんどんどんどん狭いものになっていってしまいます。宣教奉仕に対して熱心でない人を、なまけもの扱いしたり、霊的に低い人という見方をするようになります。

 開拓奉仕を始めると、柔らかな心が失われてしまう危険があります。開拓奉仕には、さまざまな危険がつきまとうので、僕としては、非開拓奉仕を皆さんにお勧めします。