あらゆる強欲に警戒しなさい

 イエスは、富み過ぎることや、強欲に対して、注意をしておられます。

「じっと見張っていて,あらゆる強欲に警戒しなさい。満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じないからです」。
(ルカ 12:15)

 強欲は、人の心を飲み込むほどの強い力で迫ってきます。強欲に取り付かれた人は、もやはその偶像のために自分が何をしているかわかりません。

 強欲な人は、さぁもっと集めようといいます。貧しい人からもたんと集めよう。そうしたら、神のためになるからといいます。神のご意思を遂行していることになるといいます。

 しかし、強欲によって、貧しい人たちから、お金をかき集めたとしても、それが、命を生み出すことはできません。一時的に悪が生きのびることになったとしても、永続的な命をもたらすことはないのです。

 命は、所有しているものから生じるのではなくって、おきてを守ることによって生じます。アダムとエバは、善悪の木からとって食べました。そして、そのために、死ぬことになりました。

 もし善悪の木の実がなければ、どうなっていたでしょうか。もしそうであれば、人は動物と同じように死んでいったはずです。つまり、善悪の木をおいたのは、神が人に永続する命を与えるためだったのです。

 食べたら死ぬ木ではなくって、食べなければ命を永らえるための木です。多くの人が勘違いをしていますが、そもそも、善悪の木がなければ、人は、動物と同じように死んでいったということです。

 神が危険なものをおいたのではなく、神は有益なものをおいたのです。

 聖書の主題のひとつは「義なるものは信仰によって生きる」というものです。信仰とは、妄信や狂信を意味しておらず、神に対する誠実さ、まっすぐさを意味しています。

 生きるというのは、命を永らえるという意味です。「満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じないからです」とイエスが語っていますが、イエスはまさに、永続する命について語っています。

 強欲によってたくさんの富を得ても、それは命を生じさせないのです。命を生じさせるのは、神と神の子に対する誠実さ、まっすぐさです。そのおきてとは「隣人を自分自身のように愛さねばならない」です。ただ、これだけにかかっているのです。

 神は人との和解のために、最初のように、たったひとつのおきてにまで、譲歩したのです。