現代的考察 - 女性への抑圧の問題

 ちょっと筆安めに、聖書的話題を離れて、現代的考察というタイトルで、一般的な話題もときどき扱ってみようかと思います。今日は、女性への抑圧の問題です。

女性の性意識

 まず最初に性の抑圧という点についてです。

 少し昔の日本であれば、女性には、性欲がないものと考えられる風潮がありましたし、女性は性欲を持つべきではないという文化もありますし、性欲を持つ女性は、品性において劣っているとみなされる場合があります。

 これは、男性の性欲の語られ方と比較してみれば、明らかです。男性の性欲は、面白おかしく語られます。男性に関しては、性的な話題が、タブーとなっていません。

 その反対に、性的な話題を面白く語ることができるかどうかは、コミュニケーションを円滑にするための、話題でもあるのです。たとえば、「性的な話題ができない人は、つまらない奴」という風に。

 この男女の対照は、肉体的、動物的なものではありえません。意識が目覚めさえすれば、女性の性欲は男性と同じようにあります。

 本能的な差異というよりは、女性の性的願望は、教育や環境によって、社会的に、抑圧されているということです。

 実際女性は、隠れてものごとを行おうとする傾向が、男性よりも高いです。

仕事において

 男性の体の特徴は、太陽に似ています。毎日同じように、活動することができますし、肉体的な力も強いです。一方女性は、月に似ています。月の満ち欠けがあるように、女性の肉体的なバランスには、月をを通して変化があります。

 日本において労働的な価値観がどのようになっているかを考えると、仕事内容は、男性の体に合わせて設計されています。

 男女平等という概念において求められることは、女性が、男性の仕事内容に追いつくように働くということです。

 しかし、仕事内容が男性に合わせて設計されているので、女性は、それを続けることが難しいと感じることが多いと思います。

 たとえば、労働時間が極端に長く、いつでも対応する必要があるという仕事は、女性の体で続けることは、非常に難しいでしょう。

抑圧の結果はどこへ向かうか

 抑圧の結果は、どのように発散される傾向があるでしょうか。一つ目は、女性社会の内部において、序列を作ることによってです。

 抑圧されているという現実は、不平等感をもたらすので、抑圧の発散として、さらにだれかを抑圧するという方向に向かいます。そして、自分より低い人間を作ることで、自分を守ろうとする力が働きます。

 また、いじめられる側に入ってしまうことが、最悪の結果なので、いじめっ子に対して、見てみぬふりをします。いじめられる側から観察すると、いじめられているのに、だれも助けてくれないという現実になります。

 陰湿ないじめは、うまく隠され、男性の側や、学校の教師の目からは、発見することは難しいということになります。「冗談でやっているのよ。わたしたちはこれが楽しいのよ。あはは。」ということになります。

 二つ目は、女性の抑圧の発散は、子供に向かうということです。これは、重要な指摘です。女性にとっては、自分が優位に立てるのは、子供だけだからです。

 世間に対する女性の性格と、子供に対する女性の性格には、非常に大きな乖離が見られることが多々あります。ときには、まったく正反対のように見えて、性格が分離しているように観察されることもあります。

 世間に大しては優しく慎ましやかな女性、子供に対しては、非常に、高圧的で、自分の思うようにならないと許せない母親です。

 これは、ひとつの宗教の問題というよりは、むしろ日本における一般的な問題なのです。女性が抑圧されて評価されないという大きな問題があるために、女性は、自分を高く評価してくれる宗教団体に惹かれるという現実があります。