実際に養ってくれている人に対する敬意や感謝は必要だ

 今日は、敬意や感謝を、だれに示すべきかということを考えてみたいと思います。

 現代の人々の多くは、自分から多くのことを奪っている対象に対して崇拝をする傾向があります。金銭や、時間や、生活を奪いながら、その中毒にさせて、そこから抜け出せなくなる。

 こういう事柄に、没頭してしまって、本当に敬意や感謝を示すべき対象を忘れてしまっている。そのような状況だと感じます。

 実際に、自分を養ってくれている人は、慣れてしまうと空気のようになっていきます。そして、刺激的で、興奮するものに強く愛を感じて、それに没頭するようになります。

 けれども、実際それは、あなたに何かを与えているわけではなく、真の姿は、貧乏神であり、お金や体力や時間を奪っていきます。このような事柄が、偶像として、人々の前に現れ、崇拝させ、人からお金や体力や時間を奪っていきます。

 実際偶像は、口を出すばかりで、生活の何かを支えてくれたりはしません。口を出すだけで、何も与えない。口を出すだけで、常に犠牲を求める。口を出すだけで、いつでも拘束を求める。

 それで、このようなものを愛してはならないのです。

あなた方のうちのだれかが,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それは何の益になりますか。このように信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです。
(ヤコブ 2:16-17)

 数千万の人を前にして、自分に対する崇拝を求めて、余計な口を開く人たちに向かって、敬意を払ったり、感謝を示したりする必要はないです。

 実際に、キリストが言われたように「あなたの隣人を自分自身のように愛さねばならない」というおきてが、第一のおきてです。