他の多くのキリスト教では、クリスチャン全員が油注ぎを受けると考える

 エホバの証人ということを離れて考えると、他の多くのキリスト教では、油注ぎの対象は、クリスチャン全員と考えます。

 そもそも、油注ぎという言葉さえ、進んで使いはしません。それは、新約聖書の少しの部分でしか書かれませんから、中心的な思想になりはしません。

 油注がれたものというのは、ヘブライ語聖書で利用されている用法を見れば、王に任命されたことの儀式として描かれています。サウロしかり、ダビデしかりです。

 クリスチャンにおいて、第一義的に、油注がれているのは、イエス・キリストです。キリスト、メシアということの意味が、油注がれた者という意味を含んでいます。

 第一義的には、キリストそのものが、油注がれた者です。

第一義的には、キリストそのものが、油注がれた者です。

 だれがだれに、油を注いだのか。それはיהוהが、イエスにです。天の父が、イエスに油注いだのです。

 第二儀的には、油注がれたものは、キリストの追随者たち、つまり、クリスチャン全員です。キリストを信じるものたちの間に、差異はありません。

第二儀的には、クリスチャン全員が、油注がれた者です。

 イエスを持つゆえに、イエスに持たれているのです。それゆえに、油注ぎは、信じるものたちにまで及びます。