ソロモンの歌は、恋人の求愛の歌だ

 ソロモンの歌は、素直な恋人の求愛の歌なのに、へんてこな方向に捻じ曲がろうとする傾向がある。

 研究記事を、ささらほーさらさんが、考察してくれているが、だいたい僕の感じる感覚ととても似ている。

まず、これは若い男女の恋愛物語であって
結婚後に長きに渡る波風に耐えた男女の物語ではない。
(今日の無茶ブリ研究記事-不変の愛は存在しますか|ささらほーさら)

 ソロモンの歌は、非常に開放的な歌だ。暗いイメージというのはなくって、求愛し、求愛される喜びを歌った歌である。

 羊飼いに出会い、恋をする。そう、どこかで、偶然にその人に出会い、その人に恋をする。そして、求愛し、その気持ちを喜ぶ。そういう歌だ。

 結婚のおきての厳しさや、キリストの愛について、歌われた歌ではない。組織による事後的解釈という偏見を取り除いて見えてくるのは、純粋な恋人の歌なのである。

 ものみの塔協会は、ある場面では、聖書に語らせることが大切といいますけれど、ソロモンの歌を「主にあるものと結婚」という聖句に結びつける必然性はどこにもありません。

 ギリシャ語聖書において、ソロモンの歌とその聖句を関連づける記述は、どこにもないんです。みなさんしっていましたか。無理に関連付ける方法は、ものみの塔協会の、創作となっています。

 ソロモンの歌は、官能的な表現、喜びの表現を、素直に読んだほうがよいと思います。恋人への求愛において、罪悪感がないという部分が、ソロモンの歌のひとつの価値だと思います。

 「求愛は喜びだ」ということが感じられる書物だと思います。

ソロモンの歌は「求愛は喜びだ」ということが感じられる書物。