あなた方の義は、パリサイ人の義より勝っていなければならない

 差別されている側は、差別されていない側に比べて、たとえ同じことをしたとしても、同じ評価を受けることができません。

 特権や権威を持っている人、宗教教団のトップや、テレビに出てくる有名人、有名学者、資産家は、ただ少しの発言をするだけで、名誉を得、たくさんの人が、それにのめりこんでいきます。

 しかし、一方、何の特権も立場も持たない人は、同じことを語ったとしてもほとんど評価されることはありません。

 ある特権をもった人たちは、ただ30分間、みんなの前に立ち、話をしてにこにこすれば、謙遜である、優れた特質として賞賛されます。しかし、何の特権も立場もない、子供たちが、同じことをすれば、煙たがられるのです。

 それで、非常に腹立たしく感じて、あの人が、あんな態度でいるのだから、自分のほうもこれくらいの態度はとってもいいだろうと考えてしまうと思います。

 不公平感が募って、あっちがあれくらいの悪いことをしているのだから、こちらだって、これくらいのことをしてもよいだろうと。

 しかし、やはり、差別されている側は、評価されるために、差別されていない人たちの、3倍、4倍の努力が必要になると、僕は言っておきたいです。

 親がお金を持っている子供と、親が貧乏な子供は、生まれながらにして、同じ土俵に立てはしない。けれども学校では、みんなが平等だと教える。そんなわけはない。

 立場や特権を持っていないのであれば、同じ評価をされるために、人の3倍、4倍の努力が必要になる。神は、公正だけれど、人は、公正ではないから。

 イエスは、こういいました。

あなた方に言っておきますが,あなた方の義が書士やパリサイ人の[義]より豊かにならなければ,あなた方は決して天の王国に入らないのです。
(マタイ 5:20)

 これから先も、皆さんは、パリサイ人のために、悔しい思いをし続けるでしょう。それで、自暴自棄になって、侮蔑の言葉を語りたくなる傾向が強くなると思います。

 けれども、イエスは、「あなた方の義が書士やパリサイ人の[義]より豊かにならなければ,あなた方は決して天の王国に入らない」といったのです。

 「世にあってあなた方には、艱難がありますが、勇気をだしなさい」といったのです。