聖書の真実性に関する考察

 聖書の真実性に関する持論を一度展開しておきたいと思います。

 まず、結論だけをいうと、聖書は、史実とずれているということです。絶対的な真実と、聖書の記述には、ずれがあります。これが、僕の現在の認識です。

 たとえば、モーセが記したといわれる創世記の、人類の出現する時代は、あまりにも、最近すぎるのです。それで、単純に、僕は、モーセは、人間の歴史の時間に関する記述は、間違っていると述べます。

聖書の真実性とは何か

 それで、多くの人は、聖書は無意味だという結論を導こうとしますが、僕は、聖書を救う道を行きましょう。

 それは「聖書の真実性とは、人間が真実を知ろうと努力した記述である」というものです。

 絶対的な真実性ではなくって、同時代における真実性の高さです。

 ルカは、こう述べました。

それを,きわめて優れたテオフィロ様,あなたに,論理的な順序で書いてお伝えすることを思い定めました。それは,あなたが口伝えに教えられたことの確かさを十分に知っていただくためです
(ルカ 1:3-4)

 もっとも後の時代の人々は、全時代を、自分たちの時代の基準で裁こうとします。しかし、ある時代の人間には、限界があり、その限界の中でしか調査を行うことができません。

 モーセも、ルカと同じような精神態度で、伝えられている伝承や資料や、その他の科学的な知識、そのような資料を使って、創世記を記述したのではないでしょうか。

 そうであれば、モーセは、真実のために奉仕をしたいと考えて、利用できる資料を集め、調べ、記したのです。

おそらくモーセは、文字の歴史を、人類の歴史だと信じた

 長い人類史の中で、文字の歴史というのは比較的浅いです。最初の文字表現といわれる、原文字と呼ばれるものが出現したのは、紀元前7千年代だといわれています。

 そうであれば、人間の出現の起源を、文字の出現と重ねることは、ひとつの自然な推測ではありませんでしょうか。現代的な観点からは、間違っているとしても、真実性の探求の姿勢が、そこには、見られないでしょうか。

 創世記の記述は、それを寓話としてみれば、宇宙が形作られ、地球が形作られ、植物ができ、動物ができ、人類が誕生したという一連の流れを保存しています。

 たまたま流れがあっているのでしょうか。あるいは、空想ではなくて、調査をし、真実性を求める努力があったので、真実に近い姿をしているのでしょうか。僕は、後者だと信じます。

洪水は存在したが、それはずっと昔のことなのかもしれない

 ノアの洪水神話を救うためには、モーセの人類の歴史の算定が間違っていたと結論するのが、簡単だと思います。

 そうすれば、もっとずっと昔に、人類史の初期に起きた、ほとんどの人類を滅ぼすほどの洪水が起きたと想像することもできるからです。

 洪水神話は、イスラエルだけが持っているのではなく、他の民族も、洪水神話を持っています。

 とすれば、人類が、まだそれほど広がっていない時代に、洪水が起こり、その子孫が広がって、他地域に、洪水神話を保存しているのだという推測が、可能だからです。

 モーセは、聞き伝わった伝承を、物語として記しているのであって、出来事の完全な輪郭を記しているわけではありません。